「聖なる道」は、聖霊を受けた者が、日々の霊的生活をいかに生くべきかを学ぶための黙想書であり、聖人への道でもある。 「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。」(ガラテヤの信徒への手紙5・25) 使徒パウロの勧告に従い、この法則を採用し、神に生きることと、神と共に歩む霊的生活を修得(しゅうとく)することである。 換言すれば、精神を神の現存に集注することである。 日記を買い求める人は多くあるが、1月1日から、12月31日まで書き続ける人は、必ずしも多くはない。 霊的生活において最も重要なことは、日々--生涯、 祈りをもって完遂(かんすい)することである。 そこには大路があり、 その道は聖なる道ととなえられる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。 主にあがなわれた者は帰ってきて、 その頭に、とこしえの喜びをいただき、 歌うたいつつ、シオンに来る。(イザヤ35・8~10) |
第1日 主イエス・キリストを知る |
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「わたしは、・・・・・主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(フィリピの信徒への手紙3・8) |
使徒パウロが、キリスト教史上、最も偉大な大使徒・大聖人であり、偉大な業績を遺(のこ)した人物であることは、全世界の認めるところである。 彼について書くとき、偉大という文字をあまりにも多く必要とするので、活字が不足しないかと心配する程である。 彼がかくも偉大な使徒とせられし秘訣を知るためには、彼自身に聞くのが最善の道である。 |
それに対する彼の解答こそは、はじめに引用したみことばなのである。 すなわち、主イエス・キリストの偉大さを知ること、 人はキリストを知る度合いに応じて、その人もまた偉大になると言うことである。 |
山は登るにしたがい視界の展望が開かれる。 それと同じく、わたしたちもまた、主イエス・キリストを知れば知るほど、その度合いに応じて霊魂は高揚(こうよう)され、 あなたの目は麗(うるわ)しく飾った王(キリスト)を見、 遠く広い国を見る。(イザヤ33・17) |
キリストご自身に焦点を絞り、内住のキリストの現存を再発見し、 凝視(ぎょうし)しつつ礼拝をささげ、 「神は愛なり」とつつしみ深く、くりかえし称(とな)えることである。 キリストとの交わりが次第に高調し、愛に燃えるとき、 「わが主よ、わがすべてよ! わたしは、おんみをお愛しします」 と愛を告白し、 心をつくし、精神をつくし、力をつくして、 あなたの神、主を愛することに熱中することである。(申命記6・5) |
風船が息を受容した度合いに応じて大きく膨張(ぼうちょう)するように、 人間の霊魂もまた、 神の息なる聖霊に、充満された度合いに応じて、 神において偉大な存在とせられるのである。 |
イエスのメシヤ性と神性を、深く観想すること。 キリストとの一致と交わりのうちに、 キリストはご自身のいのちを、いとも豊かに注ぎ入れてくださるからである。 |
「主にあって強くありなさい。 <彼との結合によって> 彼からあなたがたの力<彼の無限の力が供給するところの力>をくみ出しなさい。」(エフェソの信徒への手紙6・10、詳訳) |
キリストに在(あ)って、 神のために生きるために、 しかり、神の栄光と、人類の救いのために、ここからスタ-トしなければならない。 |
サマリヤの女は、 ヤコブの井戸辺にて、奇(くす)しくもイエスと出会い、 彼女はイエスとの出会いを通して、キリストと呼ばれるメシヤを知った(ヨハネ4・25)。 しかし、その認識は十分ではない。 そこでイエスは「私は有るというものである」とご自身を啓示されたのである。 |