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       「またあなたがたが<自分の全存在において>満たされて、 
       神の充満に達する 
       <すなわち最大限の豊かな神のご臨在をいただき、 
       神ご自身によって全く満たされ、 
       あふれているからだとなる>ためです。」(エフェソの信徒への手紙3・19、詳訳) 
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       注目すべきは『充満(プレロ-マ)』(pleroma)ということばである。 
       この充満ということばは、エペソ書1章23節にも用いられている。 | 
    
    
       キリストのからだそのものである教会は、 
       神のいのちの充満を受けた、 
       霊的健康体であらねばならないのであり、 
       繊(せんさい)細で痩(やせ)型、ス-トであってはならないのである。 | 
    
    
       キリストのからだである教会こそは、 
       頭なるキリストを現在において啓示するものであり、 
       もうひとりのキリストであらねばならない存在であるからである。 | 
    
    
       もうひとりのキリスト、他のキリストであるためには、 
       どうしても神の充満を受けておらねばならないことは、原理的に当然のことなのである。 
       したがって、終末をすべくくるリバイバリストとなるためには、 
       繊細スマ-トであっては役に立たない。 | 
    
    
       試みに使徒行伝に登場する使徒達は、 
       一人の例外もなく、 
       「一同は聖霊に満たされ」ていたのである(使徒言行録2・4、4・31) | 
    
    
       聖霊の充満、キリストの充満、神の充満こそは、 
       使徒行伝におけるリバイバルの神的エネルギ-源であった。 | 
    
    
       「というのは、彼(キリスト)のうちにこそ 
       神性の全充満が肉体の形をもっていつまでも宿られる 
       <神性の完全な表現がなされている>からです。 
       そしてあなたがたは彼のうちにあり、 
       満ち満ちた者とされる<満ち満ちたいのちになる>のです。 
       <キリストにあってあなたがたもまた、 
       神、すなわち父、子、聖霊に満たされ、 
       霊的に完全な身たけに達するのです>」(コロサイの信徒への手紙2・9~10、詳訳) 
       とある通りである。 | 
    
    
       教会はまさしく父・子・聖霊、すなわち三位(さんみ)一体の充満にほかならない。 
       頭であるキリストは、ご自身のうちに充満する神性を、神的生命を、 
       そのからだである教会に、豊かに注ぎ込み、 
       それによって教会を神の充満(プレロ-マ)とするのである。 | 
    
    
       キリストが、からだである教会を聖霊の充満とするのは、 
       ご自身の充満を、教会を通して、人類に伝達せしめるためである。 
       自分自身が神の充満の体験を持たないなら、 
       いかにして他者に溢(あふ)れ注ぐことが可能であろうか。 | 
    
    
       使徒行伝における使徒達が、 
       エルサレムからロ-マまで、 
       きわめて短い期間をもって、 
       福音によって征服し得たのは、 
       ひとりびとりの使徒が神の充満を持っていたからである。 | 
    
    
       この終末時代をすべくくるリバイバルを起こすためには、 
       どうしてもわたしたちが、 
       この神的エネルギ-、 
       神の充満を持たねばならないのである。 
       「あなたがたもまた、父・子・聖霊に満たされ、神の充満に達するのです。」 |