一九三六(昭和十一)年四月のある日、汽笛が響き、五色のテープが乱れ飛ぶ中を、下関の港から、一隻の連絡船が釜山に向けて出発しました。船の中は、大陸を目指す男たちでごった返していました。ある者は野望を胸に秘め、ある者は、金儲けをくろんでの渡航です。
その中でただ1人、得るためにではなく、与えるために、祖国を後にした人がいました。それは、当時二十九歳だった大槻武二牧師です。
その時、大槻牧師は、満州・奉天(現在は中国・しん陽)の開拓伝道に携わるようにと任命を受けていました。そこには、誰一人知り合いはおらず、ただ数名の信徒 、牧師の到着を待っていました。
大槻牧師は、船の甲板から玄界灘の荒波を見つめ、堅く心に誓い、祈るのでした。「満州にリバイバル(神のみわざの再現)を。そうでないなら、死を与えたまえ!」
奉天青葉町四十一番地。その二階の借家で、教会は始まりました。大槻牧師は、来る日も来る日も、神にしがみつくようにして祈り続けました。
やがて、八歳になる少女が母親に連れられて、教会にやってきました。最初の求道 者です。その子の名は重利清子ちゃんといいました。生まれつき体が弱く、足も少し 不自由な子でした。父親は、権勢を誇る日本の警察官をしており、キリスト教は外国 の宗教だと猛反対でした。
十一月のある日、教会に行きたいとせがんだ清子ちゃんは、凍てつく屋外に放り出 され、肺炎を起こし、ついに危篤状態に陥ってしまいました。 しかし、少女は、瀕死の息の下で、自分を苦しめた人たちのために、ひたすら祈り 続けたのです。
そしてある夜の事です、お祈りの後で突然、目を輝かせ「清子は神様を見たから、 うれしい!」と叫びました。その翌日少女は「平安、平安」との言葉を残して、天に 帰っていった。その顔には、神の輝きがあざやかに反映されていました。「心の清い 人たちは、さいわいである、彼らは神を見る。」と聖書に記されているとおりです。
この出来事は、大槻牧師にとって、その信仰に一大変化を与える決定的な事となり ました。以来、大槻牧師は涸れた谷に鹿が水を慕いあえぐように、生ける神との出会 いを激しく求めました。そして、ついに、神ご自身を渇き求める者に、神は答えられ たのです。
翌一九三八(昭和十三)年一月九日。夕食が始まろうとしていた時のことです。祈 っていました牧師は、突如として神の臨在で包まれました。その臨在の中から復活の キリストは息を吹きかけて言われました。「わたしをとって、食べよ!」その息の中 から、サファイアのように輝く発光体が現れて、近づき、口に触れ、そして牧師の人 格の最奧にとどまりました。それは「言(ロゴス)」という、神の御名でした。 「ロゴス(キリスト)、神、聖霊、三位一体、実体! これに命あり、永遠の命! ロゴスは神なり!」(ヨハネ1:1ー4)「わたしは神を見ました!」それが、その夜の牧師の説教の、第一声でした。
その時以来、大槻牧師は人が変わったように力に満たされ、牧師を通して聖書に記 されている、キリストと使徒たちが行ったのと同じわざが再現されていきました。
ところがその様なとき、済南へ転任するようにとの命令が届きました。日華事変は エスカレートし、日本兵が続々と北支、南支へと出征していきます。その中を、一九 三八(昭和十三)六月、大槻牧師はキリストの平和の戦士として、神の言葉に従い、 済南へと旅立っていきました。
満州に比べ、済南での二年余は、見るべき成果もないように思えました。しかし、 神は日本人だけではなく、他国の人々に対しても愛を注ぎ尽くす牧師の働きに、すば らしい実を与えられたのです。
この間に救われた韓国人の青年の中で二人の人が、キリストのために献身し、その 内の一人の方は、今日、韓国で、ライ病患者のために奉仕して、「韓国のダミアン神 父」と尊敬されているのです。
おごり高ぶった日本は、ついに第二次世界大戦の泥沼の中にのめり込んでいきまし た。それは、平和を愛し、人類愛に生きるクリスチャンにとっては、迫害と圧迫の時 代でした。大槻牧師の同僚たちも、神社参拝など軍部の方針を否み、投獄され、数名 が獄死しました。
そのような中、大槻牧師は再びなつかしい満州に派遣されました。キリストの命に 満たされた牧師の行くところ、多くの病人が列をなして祈りを受け、盲人の目は開か れ、聞こえなかった耳は聞き、歩けなかった人がおどり歩くという、素晴らしいリバ イバルの連続でした。(マタイ福音書11:4ー5、使徒1:8)。
こうして、神は民族を超えて、大陸に限り無い愛といつくしみを注ぎ、み力を現さ れました。大槻牧師は、全能の神と大陸の人々と間の「愛の架け橋」となりました。
満州から帰国してまもなく日本は太平洋戦争に突入しました。戦火のもと、大槻牧 師は、明日をも知れぬ同胞のため、ゲートルを巻き、リュックを背負って伝道に明け 暮れました。灯火管制の中を、人々は「命のパン」を求めて、大槻牧師の行くところ 群れをなして集まり、恵みの福音に聞き入るのでした。
一九四五(昭和二十)年八月。長かった戦争は終わりました。廃虚と化した祖国に 、復興の槌音が響くより早く、神は内的復興のわざを開始されました。一九四六(昭 和二十一)年一月五日、神は大槻牧師に語りかけました。
「その名をイエスと名づけなさい」。この神の啓示により、聖イエス会は誕生したの です。
早速、広島県御幸村の一婦人が、自分の作っていた最上の田んぼをキリストのため に捧げました。この心意気に感激した人々が、物資不足の中、金目のものはもとより 、アルミの弁当箱まで持ち寄りささげ尽くして、神学院の建設に着手しました。
東京の真ん中に雑草が生い茂り、ようやく雨露をしのぐバラックが立ち並んでいま した頃、まして日本のキリスト数会が自力で立ち上がることは到底不可能と言われた 時代、緑の田園の真ん中に、白壁も美しく、高々と十宇架を掲げた二階建の神学校が 建ったのです。一九四七(昭和二十二)年一月のことでした。
それから3年後の一九五0(昭和二十五)年、大槻牧師一家は京都に移りました。 双岡のふもと近く、東に龍安寺、金閣寺、西には嵯峨野、嵐山を控えた史跡景勝の地 。当時、周囲は人家もまばらで、閑静なたたずまいでした。
ワン公ハウスと呼ばれた六畳の牧師館兼礼拝室で、嵯峨野数会と神学院は、スター トしたのです。
わずか数名の人を前に、大槻牧師は語りました。
「荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。」
(イザヤ35:1ー2、6)
「この地に、聖霊が注がれ、リバイバルが起こり、聖徳の人が続出し、さふらんの ようにさかんに花咲くでしょう。神の言葉を信じましょう。」 聖イエス会が創立されてから48年。聖イエス会は今日、全国に一0二の教会を生 み出し、嵯峨野数会も、聖イエス会の母なる教会として礼拝出席者二百五十名、送り 出した伝道者四十三名を数えるに至っています。そして、大槻牧師は、霊父として、 多くの人々の指導に当られている。 大槻牧師が強調する、御名による神との出会いの福音は、遠く海外にまで伝えられ 、かつて、日本が侵略の手を伸ばした国々に、届けられました。大槻霊父が愛の種を まき続けた国々から、今日、永遠の命を求めて、聖イエス会の牧師を招聘する声が絶 えない。また、霊父のもとで命の福音を学ぶために、神学生や牧師達も、ロゴス神学 院に留学してくる。 アジアだけではない。欧米、中近東にまで、かけ橋はつながっていきます。
これは、ある世界的に有名なバイオリニストと大槻牧師の間で、交わされた美しい 友情のエピソードです。ある時、彼は夢にまで見た、ストラディバリウスの名器が売 りに出されているのを知って、ニューヨークから国際電話で「買うべきかどうかを」 尋ねてきました。大槻霊父は即座に答えた。「高貴な一粒の真珠を見いだした商人は 、全財産を投げ出して、それを買うのです」
たび重なる戦争の悲惨をなめ尽くしてきた初老の男性は、大槻霊父のメッセージを 聞き、次のように語られた。
「私はあなたと出会い、あなたの言葉を聞いているうちに、聖書の冒頭に『神は光あ れと言われた。すると光があった』と記された言葉を理解できました。神と共にある 義人、神の火に燃えて輝く人が、『光あれ』と言うとき、闇の力は追放され、新し平 和が創造されるのです。」
一国の大統領を務めた人が、大槻霊父を親友として、さらに預言者と尊敬し、こう 語られました。「あなたの内にある泉から流れ出る、透き通った生ける水を、わたし たち一同が、これからも飲むことができますように。」
彼は、日本留学中に霊父と親交を深めた著名な大学教授と共に、国民に呼びかけた 。人々が集まり、千数百の木が植えられた。その国の最も重要な地に、霊父と、すで に帰天した夫人を記念するために、美しい森が造られた。
厳格な宗教的最高指導者は、二十数年ぶりに大槻霊父と再会して、
「かつてエルサレムに輝いていました真理の光が、今京都に現れて、世界を照らして いる。」と語られました。
大槻霊父は、八十八歳を迎える今日、一畳にも満たない部屋を書斎とし、小さな木 の椅子にすわり、聖書とわずかの霊的愛読書を糧として、祈りの日々を送られていま す。訪ね来る人を迎える祈りの家は、質素な木製の祭壇に、神の現存と永遠の命の香 気が満ち、この祈りの家から慰めのメッセージが、全世界にメッセージが送られてい ます。
民族と民族、宗教と宗教、人と人の間には、反目と無理解、差別と迫害の歴史があ ります。人間にとって、この不幸な関係を解くことは、不可能と思われます。確かに 、人間にはできませんでした。しかし、神においては、すべてが可能なのです。 約束されていた神の時が到来し。ユダヤ教とキリスト教の間にも、平和ヘの夢の架 け橋が実現しました。今や両者は美しく溶け合い、「アニー マアミン、ボー ヤボ ー ハマシアハ」と祈っています。こうして、選民の祈りと、異邦人キリスト者の祈 りが、かぐわしく天上にのぼり、金の香炉を満たす時、待望のメシヤの来臨が実現さ れるでしょう。
「純粋無私の愛」に満たされて、あらゆる隔ての垣根を超えて、世界に愛の橋を架 けながら、主ご自身から啓示された、この一条の道を直線的に歩んで行こう。新しい エルサレム目指して。エルサレムへ。エルサレムへ。