古希を迎えて |
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中国の詩人杜甫(とほ)は、 「人生七十古来稀(こらいまれ)なり」と歌った。 古希(こき)の語源は、そこから来ているとのことである。 聖書の詩篇第90編にも、それに類することがしるされている。 |
「われらの年の尽(つ)きるのは、ひと息のようです。 われらのよわいは70年にすぎません。 あるいは健やかであっても80年でしょう。・・・・・ その過ぎ行くことは速く、われらは飛び去るのです。」(詩篇90・9〜10) |
最近においては、日本人の平均寿命が延びているために、70歳は稀(まれ)ではなく、普通となったが、それでも古希を迎えると、人生を改めて考えさせられる。 |
いずれにしても、もはや、自分の地上生涯は、長くはないと痛感するからである。 残り少ない人生を、大切に、充実したものに、悔いのないものとするために、 バプテスマのヨハネのように、最後まで燃えて輝くともし火でありたいと願うのである。 |
人生は、長きがゆえに価値ある生涯とは測られない。 また、短くありしゆえに価値なき生涯とも測られないものである。 人生は、いかに永遠のために、 神の栄光と人類の救済のために、多く労したかによってのみ測られるのである。 |
もう時がないと自覚すると、急に、しなくてはならない仕事が山積しているように思えてならない。 あれも、これもと。 しかし、何よりも大切なこと、しなければならないことは、 キリストとの親しい交わり、黙想に時間をかけることである。 |
「主は答えて言われた、 『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。 マリヤはその良い方を選んだのだ。 そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。』(ルカ10・41〜42) |
活動的生活か、 それとも神へ潜心(せんしん)して、神と密接に一致する観想(かんそう)生活か。 神の栄光と人類の救済という、この偉大な使命に成功しようと願うなら、 いっそう神と一致し、神に祈り、 主ご自身より使徒職のためのエネルギ−を吸収しなければならないのである。 短い時を最大限に活用する方法は、やはりこの道しかないのである。 |
神のいのちに生きている時、 人は真に神のために生き、神のために偉大なことをする。 |
砂漠の聖者、シャルル・ド・フコ−は、 「今日、殉教者のように死ななければならないかのように生きよ」と、 毎日、自分自身にきびしく言いきかせていたとのことである。 この精神を貫いたればこそ、あの生き方、あの英雄的殉教の死があったのである。 生きるにも、死ぬにも、キリストのため、これが彼の生活原理であったのである。 |
「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(フィリピの信徒への手紙1・20〜21) これが、キリストにあるものの本当の生き方であり、死にかたでもある。 |
神であり、主であり、師であられるイエス・キリストが、 十字架上であのように貧しく死んでゆかれたのであるなら、 彼の弟子であり、僕(しもべ)である私はどうあらねばならないのかを、深く深く考えさせられるのである。 |
キリスト者の告別式は、多くの花環(わ)にかこまれ、多くの献花に飾られた、豪華なものであってはならない。 貧しくあること、それが主であり、師であるキリストに学ぶ道である。 素朴(そぼく)な花瓶5つ、多くとも7つ、清い感じの生(せい)花を、心をこめていけることである。 それがわたしに一番ふさわしく思われてならない。 献花も、親しい家族、聖イエス会代表、聖職者代表、神学生代表、教会代表のみで十分である。これは、わたしの遺言として、ここにしるしておくものである。 遺言は必ず厳守していただきたいものである。 |
「心の深みまで新たにされて」(エフェソの信徒への手紙4・23) |
心の深みまで、とは、意味深長である。 聖霊を受けておりながら、 霊的になれず、 生来(せいらい)の性質がきよまらず、 自我の強い人が存在するのは、 雨が降っても地表のみ潤(うるお)って、水の浸透しない固い土地のように、 恩寵(おんちょう)を流れすごさせてしまう人である。 |
霊的生活によって霊魂をたがやしていない人は、 聖霊のくまなき浸透を受けることができないからである。 心の深みまで聖霊の浸透を受けることによって、 人は、真にキリストに似たものとされるのである。 |
一日の生活態度そのものが、 黙想的、観想的雰囲気、つまり、祈りの生活であらねばならない。 |
絶え間なき祈りとは、 絶え間なく声を出して祈ることではなく、 絶え間なき黙想、念祷(ねんとう)、 主との交わりの霊的生活のことである。 |
ロニ−・ロゴフ氏と、サミュエル・サンダ−ス氏(著名なユダヤ人音楽家)とが、 1日10時間猛練習しているのを、この目でたしかめ、大いに挑戦を受け、感動をおぼえた。 大家になればなるほど、練習時間は長いということである。 霊的生活もまた同様である。 |
人生の終極目標は、 可能な限りキリストと一致し、 キリストの生き写しとなり、 全存在をもってキリストを表現することである。 |
過去70年間の地上生涯には、多くの人々との出会いがあった。 人々との接触にはまた、色々な事件がともなうものである。 親切な善意の人、無理解な冷酷な人、霊的な人物、肉的人物、協力者あり反対者あり、さまざまであった。 |
しかし、結論的には、ただ一つの解答を得たのである。 |
「神は、神を愛する者たち、 すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、 万事を益となるようにして下さる。」(ロ−マの信徒への手紙8・28) |
善きも悪(あ)しきも、喜びも悲しみも、 すべて一切万事が、 私の完成、 キリスト化のために役立つものであったとの教訓を、 身をもってしみじみ体験したということである。 |
この秘密を知ったなら、 どんなひどい仕打ちをした人であっても、決して憎むべきではない。 彼のためにこそ祈るべきである。 |
十字架は、 外見的に見れば、とげとげしいバラのようにしか見えないが、 耐え忍んで抱いていると、 やがて美しい花が咲き、 気高い芳香がただよい、甘美(かんび)なものとなるものである。 十字架を負っている人生ほど意義あるものはなく、 十字架を負っている人ほどイエスに似た人もまたないのである。 |
この地上で最も真実な生き方とは、 キリストへの愛のために、 キリストと共に、清く貧しく生きることである。 聖人や修道者達が志向したのは、清貧という理想に生きることであり、 それは離脱の道であって、より深くキリストと一致する道であった。 すべてのものから離脱した度合いに応じて、神はその人のすべてとなられるからである。 |
キリストに真実肖(あやか)りたいなら、 恥辱(ちじょく)の深淵(しんえん)を体験しなければならない。 それゆえ、恥辱を喜んで甘受すべきである。 恥辱を甘受することは、 自我に死を宣告することであり、 人間をきわめて謙遜(けんそん)なものにする最良の妙薬である。 |
神に真に生きるためには、 神のいのちの表現となるためにこそ、 徹底的に自己を放棄し、自我に死なねばならないのである。 それは、キリストご自身が、わたしにおいて今を生き給うゆえにである。 |
「生きるにも死ぬにも、 わたしの身によってキリストがあがめられることである。」(フィリピの信徒への手紙1・20) |
わたしが創造され、 キリストの宝血によってあがなわれ、 使徒職への召命を受けたのは、ただこのためである。 わがこの命の燃え尽きるとき、それは悲しみではなく、大いなる歓喜でさえあるだろう。 |
人生はあまりにも短い。 そのモ−メントの中で、偉大な永遠のことに熱中したい。 それだけが、わたしの抱き続けた、たった一つの聖なる野心。野心と言うは当たらない。 それは、きよらかに美しいもの、神の聖旨(みむね)の実現・成就にほかならない。 |