〜霊的遺書〜



第13章 道・真理・命なるキリスト
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14・6)
「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14・9)
「トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ。』」(ヨハネ20・28)
聖アウグスチヌスは、いみじくも、
「言(ロゴス)は、御父のみもとにいまして、真理かつ命であられる。
肉体のころもを着けられてから(人性をとられしことにおいて)道となられた」と言っている。
まことに至言である。
信仰の旅路の終極目的、それは、神ご自身に到達することである。
しかし、神に到達するための道、手段、方法は何か、との問題は、きわめて大切である。
わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14・6)
これが、人類に対するイエスご自身の解答である。
全世界には多くの宗教があり、
人生の悟りを得たと自称する人々は、
「わけ登る麓(ふもと)の道は多けれど、同じ高嶺(たかね)の月を見る哉(かな)」と歌っている。
しかるに、イエスご自身は、厳然と、
「わたしが道であり、わたしによらなければ、だれひとりとして神にいたることは不可能である」と宣言されたのである。
このイエスの重大宣言こそは、
ご自身の
メシヤ性神性宣言にほかならない。
それであればこそ、イエスのメシヤ性と神性を信ずる信仰こそは、天国を開く唯一の鍵なのである。
道がなくしては、何人(なんびと)も父のみもとに行くことはできない。
よし道があっても、それを知らねば目的は達し得ず、道を知っていても、命がなくては歩み得ない。
「しかし、以上の事(ヨハネ福音書)がしるされたのは、
あなたがたにイエスはキリスト、神のみ子であると信じさせるためであり、
また彼を信ずる(彼のメシヤ性と神性を信ずる)ことによって、
あなたがたが、
彼のみ名によって〔すなわち、彼の本質(神性)そのものによって〕
いのち(永遠のいのち)を得るためである。」(ヨハネ20・31、詳訳)
人類の歴史上、実在のひとりの人物であったイエスという人。
この人に焦点(しょうてん)を合せ、信仰のプリズムを通して、つらつら見つめよ。
そうすることによって、
ついに、イエスの人性の御傷の開かれた道を通って彼のメシヤ性にかけのぼり、
イエスのメシヤ性の深みを観想(かんそう)し、
さらに、メシヤ性を通って、その最奥なる神性の高みにかけのぼり、
キリスト(メシヤ)の御顔において、父ご自身を見るのである。
「わたしを見たものは、父を見たのである。」(ヨハネ14・9)
「わが主よ、わが神よ。」(ヨハネ20・28)
もはや、単に人なるイエスに出会っているのではない。
単にメシヤに出会っているのでもない。
真実な神であり、永遠のいのちであられる(ヨハネの手紙一5・20)
わが主、わが神に出会っているのである。
まことに、イエスは、その人性において神にいたる唯一の道であるが、
その神性において終極、神ご自身なのである。
イエスの比類なきユニ−クさは、道と終極とが一つである点にこそある。