~言泉集~



天  雷
キリスト教の伝道者でありながら、
奇跡の時代は過ぎ去ったと、さも得意気に語っている人人を見受ける。
奇跡がないのではなく、
奇跡に対する信仰がないために、奇跡としるしを行い得ないのである。
今からでも遅くはない、悔い改めて、
「イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」(使徒言行録4・30)と祈るべきである。

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブライ人への手紙13・6)変ったのは現代人の信仰である。
現代人の信仰は頭から出ているが、
本当の信仰、生ける信仰、奇跡としるしを行う信仰は、腹の奥底より流出するものである。
神癒(しんゆ)や奇跡に対する信仰がないのは、
理屈はどうつけようとも、
キリストの神性に対する信仰の欠如(けつじょ)からきているのである。
ある人が神癒の按手(あんしゅ)祈祷を受けたが、結果は癒(いや)されなかった。
彼は、ある人にもらして言った。
「一言の祈りで、私のこの頑固(がんこ)な不治性の病(やまい)が、簡単にいやされるわけがないと信じていた」と。
彼の病気が頑固な不治性のものなのではなく、彼の不信仰が頑固で不治性のものなのである。
東亜伝道会の創立者であり、会長であった日疋(ひびき)信亮氏を教務のことで訪問すると、
「牧師は神癒で大変主の栄光を顕(あらわ)していると、満州から感謝な報告を受けているが、
何か秘訣(ひけつ)があるのか」と質問された。
「別に秘訣はありませんが、
主イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがありません。
聖書に堅く立ち、大胆にイエスの名によって按手して祈る(マルコ16・18)のみです。
もし癒されないなら、それこそ不思議です」と答えると、
日疋氏は、「それだ! それなら癒される。
それが秘訣だ」と叫び、固く握手された。
「金銀はわたしには無い。
しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒言行録3・6)
これが、使徒伝承の正統信仰である。
キリストの神性も、したがって奇跡も神癒も信じない。新神学を主張する誇り高き牧師があった。彼の説教はいつも、「親愛なる諸君、聖書には、かくしるされているが、私の考えによればこうである。
すなわち、キリストの水上歩行は、当日ガリラヤの海上一帯が濃霧(のうむ)におおわれていたために、波打ちぎわを歩いておられたのであったが、遠方から見たので、海上歩行と見誤ったのである。」
すべてがこの調子であった。
その牧師が転任となり、送別会を催し、教会代表が、記念品として立派な旧新約聖書を贈呈した。
牧師が聖書を受けとり、中をあらためると、聖書の各所が切り抜いてあるので驚き、その理由をたずねた。
役員は平然として、「先生が信じられないと説教された部分を、全部切り抜いて差し上げました。御使用上便利かと気をきかしました次第です」と。
現代において、世界で最も神癒の器として著名な牧師は、オ-ラル・ロバ-ツ師である。
彼は、オ-ラル・ロバ-ツ大学学長でもあるが、近代主義神学者達より、アメリカの新興宗教であると冷笑されている。
聖書は、唯一の誤りなき信仰の基準である。
奇跡としるしの行われている信仰が正統であるか、
奇跡としるしの皆無の信仰が聖書的であるか、あまりにもそれは明白である。
しるしと奇跡、罪人の回心とリバイバル、
神との出会い、
神の内住・現存・再臨待望、
それらはすべて、聖書にしるされしものであり、
まことに、使徒伝承の聖書的正統信仰なのである。
ある山奥に一つ目ばかりの猿の群れが住んでいた。
一匹の両目ある猿が迷い込んでゆくと、一つ目猿は驚いて、「奇(き)! 奇!」と叫びつつ、「変な猿めがやって来た。お化け猿、かたわ猿」と大騒ぎとなった。
聖書的な聖霊体験、
しるしと奇跡を行うカリスマ伝道者が出現すると、
世界中の霊眼の開かれざるキリスト信者達は、
よってたかって、すぐ異端者あつかいにするのである。まさに終末時代である。
「イエスは彼らに言われた、
『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある。』」(ヨハネ9・41)
今日、教会にとって必要なものは、金でもなく、神学でもない。
聖霊による維新、リバイバルである。
神学者ではなく、聖霊と信仰に充満されし、カリスマ伝道者を必要とするのである。
教会のいのちは聖霊であり、教会の力は聖霊である。
教会を生かし、再び使徒行伝時代の教会に回復するものは聖霊である。
聖霊にとって変わるべきものは何もない。
聖霊を崇めよ。
使徒パウロは、キリスト教界の霊的アレキサンダ-であり、
東洋から西洋まで、世界を福音によってキリストのために征服した、と言われるカリスマ伝道者であった。
彼の行くところ、どこもリバイバルであった。
そのため、反キリスト集団による迫害を受け、暴動が起こるのが常であった。
彼らの目に使徒パウロは、
「天下をくつがえしたる者」(使徒言行録17・6、文語訳)と見えたのである。
今日流に言えば、危険人物、革命家とみなされ、当局者の前に引きずりだされたのである。
台北新生教会における、連続5日間にわたるリバイバル聖会のさ中、思いもよらぬハプニングが突発したのであった。
数名の医師が、医師法違反の名目のもとに、わたしを内政部に訴えたのである。
当局者は新生教会の聖会に出席し、
わたしの説教、神癒(しんゆ)祈祷をつぶさに観察し、訴えし医師達を呼び集め、
「大槻牧師の言行を実地調査したが、牧師は聖書をそのまま語り、
説教後、病者に按手祈祷せしのみにて、
診察、投薬、注射、その他医師のなす治療を何一つせざりしゆえ、決して医師法に抵触(ていしょく)するものではない。
宗教家として当然なすべきことをなしたるのみである」と。
この事件は、新生教会におけるリバイバル集会が、
いかに使徒行伝的であったかを雄弁に物語っているのである。
使徒行伝の記録の中に、
しばしば使徒パウロが、反対者から当局に訴えられしことをみていたが、
自己の体験を通して、パウロの伝道の苦労の幾分かを、しみじみ味わい知ったのであった。
また、キリストの名のために、
福音のために受ける苦しみ、喜びをも、深く味わい知ったのであった。
わたしは、しるしに関して多く語り過ぎたであろうか。
わたしは、決して神癒が福音であると言っているのではない。
「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。(弟子たちは、福音そのものを伝えたのであり、決して神癒を伝えたのではなかった。)
主も彼らと共に働き、
御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」(マルコ16・20)とある通り、
神癒は福音に伴うものであり、第ニ義的なものである。
真の本質的な宣教は、キリストご自身(聖霊)を伝達することである。
ここで注目すべき点は、弟子達が真実福音を語った時、
主ご自身が、
弟子達が語っているものがキリスト直伝(じきでん)の誤りなき福音であることを証明し、
それを裏付けるためにしるしをもって保証されたことである。
もしわたしたちが、どれほど雄弁に説教することができたとしても、
そのことのゆえに自己陶酔(とうすい)していたとしても、
主ご自身が、
御言に伴うしるしをもって、
その確かなことをお示しにならないなら、
どれほどの意味を持つのであろうか、ということである。
「それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、
『わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか。』
するとイエスは言われた、
『あなたがたの信仰が足りないからである。
よく言い聞かせておくが、
もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、
この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう。
このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
しかし、このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことはできない。』」(マタイ17・19~21)
自分の使徒職をかえりみて、
聖霊の御働きが起こらず、
回心者がないなら、
リバイバルが起こらないなら、
しるしが伴わないなら、何が欠けているのであろうか。
深く反省する必要があるのではなかろうか。
「こうして、この12人をお立てになった。
そしてシモンにペテロという名をつけ、
またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。」(マルコ3・16~17)
わたしは、この項において、雷の子として、雷鳴を轟かせたことになるのであろうか。