「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24・50〜53) |
五百人以上の弟子達が、キリストの昇天をまのあたり目撃したとき、 それはイエス・キリストの肉体的な現存を地上から失うことであったにもかかわらず、 なぜ彼らは大きな喜びに満たされ、神を賛美することができたのであろうか。 その名状しがたい喜び、感動の原因は何であったのであろうか。 |
天地万物の創造者であられる言(ロゴス)なる神ご自身が、 受肉によって真の人間となられ、 ご自身の神性に結合された人生を、 十字架の死、死人の中よりの復活、 しかしてその昇天によって栄光化し神化され、 神の光栄にあずかるものにまで高揚されたからにほかならないのである。 それによって、死ぬものを不死のものに、朽(く)ちるものを不朽のものに、 卑しきものを光栄にあずかるものにと高揚されたからである。 換言すれば、人間性を栄光化(神化)されしゆえである。 それは人間の霊魂の不死のみではなく、肉体の不死をも示したからである。 |
キリストの昇天は、それを目撃した弟子達の信仰に革命的飛躍を与え、 イエスの神性とメシヤ性に対する信仰を不動のものとしたのである。 「彼らはイエスを拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」のはそのためである。 今や弟子達にとって、イエスは師(ラビ)ではなく、 単にメシヤであるのみではなく、 実に信仰と礼拝の対象、神ご自身となったからである。 このイエスの神性とメシヤ性を信ずる信仰こそは、 聖書が啓示するイエスに対する唯一の正統信仰なのである。 |