「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、 墨によらず生ける神の霊によって書かれ、 石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。 もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。 わたしたちのこうした力は、神からきている。 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。 それは、文字(律法)に仕える者ではなく、霊に仕える者である。 文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(コリントの信徒への手紙二3・3〜6) |
新しい契約に仕える者、霊に仕える者、 とは新約の役者(えきしゃ)、使徒職のことを指しているのである。 使徒職・・・・・・この偉大な職権と使命について、 真に理解し把握している人がはたして幾人あるであろうか。 |
使徒職・・・・・一言に要約すれば、 「もうひとりのキリストとなり、 人々に聖霊を伝達し、 人々の霊魂に生ける神の御名を印し、 キリストご自身を与え、キリストを形造る者」に尽きるのである。 |
しかるに使徒職は、このいのち、永遠のいのちを与える、 神の事業に参与することにほかならないのある。 ああ、偉大な使徒職! いのちのロゴスを伝達し、 生ける神の御名を印し、 人々の心の中にキリストを生み、キリストの形(モルフェー)を形造る。 それが本当の使徒職なのである。 換言すれば、神には人を与え、人には神を与える。 さらに、大胆率直に言えば、 「神は使徒をつくり、使徒は(ある意味において)神をつくる。」 なぜなら、キリストを与え、キリストの形(モルフェ−)を形造るという意味においてである。 これは、もはや人間の業ではない。 新契約の役者、使徒職、 ああ、いかに驚くべき聖職、いかにそれはすばらしき崇高な使命であろうか。 この一事のみが、神の大経綸に真に参与し、 教会(エクレシャ)の完成を実現し、キリストの再臨を促進せしめる業なのである。 これこそ、栄光ある使徒職の絶頂と言うべきである。 |
「そして、私たちはみな、顔からおおいをとりはずされて、 いつも主の栄光を見ている<鏡のように反映させている>〔ので〕、 いよいよ増し加わる輝きをもって <栄光の一つの程度からさらに次の程度へと進みながら> 〔主ご自身の〕みかたちへと絶え間なく化せられ(変容し)ていくのです。 〔というのは、この事は〕 み霊であられる主から〔来るからです〕。」(コリントの信徒への手紙二3・18、詳訳) |
キリストの目的は、いのちのみことばをもって教会をきよめ、 ご自身の神性に参与せしめることによって、 これを聖なるものとし、 栄光に輝く神化された花嫁なる教会(エクレシャ)を ご自身の前に立たせることである(エフェソの信徒への手紙5・26〜27) |