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       「主は霊である。 
       そして、主の霊のあるところには、自由がある。 
       わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、 
       栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。 
       これは霊なる主の働きによるのである。」(コリントの信徒への手紙3・17~18) 
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       キリストへの変容、人間の神化。 
       キリストのあがないの究極目的は、 
       人間を神化することによって、ご自身のレベルにまで高揚することである。 
       したがって、自己のキリスト化こそは、霊的生活の本質的究極目標であらねばならない。 | 
    
    
       「アルスの聖司祭ヴィアンネ-師の声は、あまりにも低かったので、 
       説教のとき、彼の周囲におし寄せる群衆にはよく聞き取れなかった。 
       しかし、人々にはヴィアンネー師の言うことは全然聞えなくても、師の姿は見えた。 
       神の霊に充満された神々(こうごう)しい姿はどこからも見えた。 | 
    
    
       この師の姿を一目見ただけで、聴衆は感動し、そして回心したのである。 | 
    
    
       アルスの巡礼から帰って来た一人の弁護士に向って、 
       ある人が、『アルスでどんな印象を受けましたか』と、たずねてみた。 | 
    
    
       『そうです、私は人間のなかに、神を見ました。』 
       これが弁護士の答えであった。」(使徒職の秘訣より) | 
    
    
       ここを読むたびに感動の涙が溢(あふ)れ流れる。 
       それと同時に、挑戦を受けもするのである。 | 
    
    
       これぞ恩寵の傑作、 
       まさに聖人のあるべき姿、神に用いられし使徒の姿なのである。 
       師は、水晶のように輝いているいのちの水なる聖霊に、 
       あまりもくまなく浸透され、 
       聖化されていたので、 
       透明度の高い宝石のように、うちに現存されているキリストを、 
       みごとに反映させていたのである。 | 
    
    
       口でキリストをあかしすることは容易であるが、 
       存在そのものをもってキリストをみごとに反映することは、 
       聖人の域に高められて初めて可能なことなのである。 
       霊的透明人間のみが、神を見せることを容易にする。 | 
    
    
       モ-セがシナイ山上において、 
       四十日のあいだ、神と顔を合わせて交わり、 
       下山したとき、 
       イスラエルの人々は、彼の顔が光を放ち、あまりにも神のみ顔を反映させていたので、 
       恐れをなして彼に近づくことができなかった(出エジプト記34・29~30)。 
       秘訣がここにある。 | 
    
    
       「主の栄光を鏡に映す。」 
       主の栄光が人間において輝く度合いは、 
       聖化された度合い、 
       神のみ顔を見た度合い、 
       神を認識した度合いによるのである。 | 
    
    
       使徒職による輝かしい成果は、 
       外的活動についやした時間の長さによるのではなく、 
       観想生活による、神との交わりの時間の長さにかかっている。 
       神の顔を受けとり、 
       神ご自身の御顔の光をもって臨む、ただ一回の集会は、 
       神の現存を反映し得ない百回の集会よりも、はるかに効果がある。 | 
    
    
       「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。 
       彼らはその良いほうを選んだのだ。 
       そしてそれは、彼らから取り去ってはならないものである。」(ルカ10・42) |