| 第29日 希望をもって喜ぶ | 
    
    
       「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 
       そして、希望は失望に終わることはない。 
       なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、 
       神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ロ-マの信徒への手紙5・2,6) 
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       「青年よ! キリストにあって大望を抱け。」(クラ-ク) | 
    
    
       「人よ! 神に対して大事を計画せよ。」(カレ-) | 
    
    
       「世界はわが教区なり。」(ウェスレ-) | 
    
    
       「聖人、しかも大聖人。」(小さきテレジヤ) | 
    
    
       大使徒・大聖人達には、必ず共通点がある。 
       神の大いなる栄光のために、大いなる希望と理想を持ち、 
       その目標に向ってひたむきに走り抜いたということである。 | 
    
    
       高校野球選手の標語は「甲子園!」であり、 
       勝ち抜いて甲子園の土を踏みし者は、「真紅の大優勝旗をわが腕に」である。 
       この栄光にあずかる希望のゆえに、 
       苦難と猛訓練に耐え得たのであり、 
       そして、希望は失望に終わることなく、 
       ついに栄冠を獲得するに至るのである。 | 
    
    
       信仰生活のスタ-トにおいて、 
       「基督(キリスト)者はキリストのごとく」、「教会は使徒行伝のごとく」との理想、 
       どうしても聖人に、 
       もうひとりのキリストに、 
       どうしても神の人、 
       リバイバルの器に、との希望を持ってスタ-トしないなら、 
       その人はすでにスタ-トにおいて敗者であり、失格者と言わねばならない。 | 
    
    
       「こういうわけで、わたしたちは、 
       このような多くの証人(使徒・聖人・殉教者)に雲のように囲まれているのであるから、 
       いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、 
       わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 
       信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。 
       彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、 
       恥をもいとわないで十字架を忍び、 
       神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブライ人への手紙12・1~2) | 
    
    
       「聖人、しかも大聖人に。」 
       この理想は、小さきテレジヤが、修道院に入る前より、 
       少女時代から死の瞬間まで抱き続けた望みであった。 
       この強固な切れることのない希望のロ-プが、 
       完徳の高嶺(たかね)に、大聖人の域にまで引き上げて行ったのである。 | 
    
    
       「なぜ山に登るのか。」「そこに山があるからだ。」 
       「なぜ聖人に憧(あこが)れるのか。」「聖人がいるからだ。」 
       偉大な使徒、殉教者、聖人の存在そのものが、わたしに対するインスピレ-ションなのである。 
       諸聖人において可能であったことが、 
       どうしてわたしにおいて不可能ということが許されるであろうか。 | 
    
    
       それは、私自身の肉の野心のためではなく、 
       神の栄光と人類の救いのため、キリストに対する愛が、かく激しくわたしを駆(か)りたてるのである。 | 
    
    
       「おお、イエスよ、愛に死ぬ、 
       かなえてください、この夢を!」(小さきテレジヤ) |