~聖なる道~



第23日 主と一つの霊になる
「主につく者は、主と一つの霊になるのである。」(コリントの信徒への手紙一6・17)
「神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(コリントの信徒への手紙一15・28)
霊的生活の目指すところは、神との全き一致にほかならない。
二つの蝋(ろう)を溶かして、一つの型に入れると、全く一つの蝋となるように、
主に堅く結びつく者は、ついに主と一つの霊となるのである。
これぞ神人融(ゆう)合の極致である。
この極致的一致合一において、
神の実体と人間の実体とが、霊的婚姻関係に入り、
霊魂は聖霊のくまなき浸透を受け、神的に変容されるに至るのである。
十字架の聖ヨハネの表現によれば、
「この神における高揚によって、
霊魂は恍惚(こうこつ)となり、
愛のうちにのみこまれ、あたかも、全く神と化す」のであると。
彼はまた、「そのとき、霊魂の知性は神の知性であり、
霊魂の意志は神の意志であり、それで霊魂の愛も神の愛である」とも言っている。
この極致においては、まさに神がすべてとなっておられるのである。
このように神が霊魂に浸透されるためには、どうしても念祷が必要なのである。
精神を神に集注し、
神のみを求め、
神のことのみ思考し、
神と親しく交わり、
神のうちに自失するほど、神の深みまで沈潜する必要がある。
神の現存の鮮烈な意識、神への完全な明け渡し、
火のような神愛による溶解、
蜜のような甘美(かんび)な愛による融合によって、
全く主に密着し、ついに主と一つの霊になるのである。
これが、霊的生活における、神との一致の終極なのである。
この極致にあっては、霊魂はあまりにも聖霊に浸透されているために、
キリストに変容され、
主の栄光を鏡に映すがごとく直観するために、
まことに恍惚となるのである(コリントの信徒への手紙二3・18)
あなたのあとについて、行かせて下さい。
わたしたちは急いでまいりましょう。
王はわたしをそのへや(奥室)に連れて行かれた。
わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、
ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。
おとめたちは真心をもってあなたを愛します。(雅歌1・4)
神のうちに深く没入し、
神の愛の甘美さに恍惚となり、愛のうちに全く溶け込む。
神との一致の度合いに応じて霊魂はキリストに変容するのである。
「その日、彼らの神、主は、彼らを救い、
 ・・・・・・・・・・・・・・・
彼らは冠の玉のように、その地に輝く。
そのさいわい、その麗しさは、いかばかりであろう。」(ゼカリヤ9・16~17)
「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁(エクレシャ)を見せよう。」(ヨハネの黙示録21・9)
「その輝きは、
高価な宝石のようであり、透明な碧玉(へきぎょく)のようであった。」(ヨハネの黙示録21・11)