| 第21日 わたしによって生きる | 
    
    
       「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、 
       わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・57) 
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       キリストの偉大な生涯、そのすばらしいみ業のすべては、 
       キリストのうちに現存された父によって、営まれたものである。 
       それと同様に、あなたがたもまた、わたしのいのちそのものによって生くべきであり、 
       そうすることによってのみ、あなたがたの地上生活は、 
       まさしくわたしの地上生涯の再現・延長となるのである、との意味である。 | 
    
    
       使徒行伝において、 
       使徒達をリ-ドし、 
       使徒達に在(あ)って行動したものはキリストご自身にほかならなかったのである。 
       父はキリストにあって、ご自身のみわざを為(な)されたのであり、 
       キリストは使徒達のうちにあって、ご自身のみ業を継続されるのである。 
       この原理を深く黙想し、かつ把握し、 
       この原理原則に自分自身を完全に適応させねばならない。 | 
    
    
       使徒パウロは、この原理原則を最大限に応用し、 
       彼の使徒活動のすべてとし、 
       原動力としたことによって、 
       あの輝かしい勝利を獲得したのであった。 | 
    
    
       パウロ書簡の鍵語は、 
       「キリストにあって」、 
       「キリスト・イエスにあって」、 
       「キリスト・イエスにおいて」であることは、すべての人のよく知るところである。 | 
    
    
       それは、あたかも人形使いが、たくみに人形を操(あやつ)るように、 
       パウロの使徒活動を操った方が、 
       彼のうちにいますキリストであったことを表現しているのである。 | 
    
    
       神に用いられる偉大な使徒となるためには、一つの条件がある。 
       人形が自分の意志を持たず、完全に自己に死んでいるものであるように、 
       神に操られる使徒となるためには、 
       どうしても、神に生きるために、 
       完全に自己に死なねばならないということである。 
       もはや自分の意志を持たない人、 
       キリストご自身の意志を、自分の意志とする人であらねばならない。 
       人はキリストの意志を持つことによってのみ、 
       神に自由に操られる存在となり得るからである。 | 
    
    
       使徒パウロは、 
       「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかた」(コリントの信徒への手紙一4・17)と 
       その生活方式を説明しているのである。 
       これこそは、彼の霊的生活の方式・秘訣なのである。 
       この生活方式から、使徒行伝のリバイバルが生み出されたのである。 | 
    
    
       「生きているのは、もはや、わたしではない。 
       キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・20) 
       「わたしにとっては、生きることはキリストである」(フィリピの信徒への手紙1・21) 
       との方式である。 | 
    
    
       これは単なる理想ではなく、 
       彼の体験であり、 
       彼の使徒職における行為のすべての源泉が、 
       彼のうちにいますキリストご自身であることを告白しておるのである。 
       使徒職の力、使徒職のいのち、すべてはキリストである。 |