~聖なる道~



第20日 神の同労者
「わたしたちは神の同労者である。」(コリントの信徒への手紙3・9)
大使徒パウロは、わたしは神の同労者である、との、強い意識をもっていた。
コリント人への第二の手紙第6章1節においても、
「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める」とも言っている。
神の同労者とのことばは、意味深長である。
単にキリスト教的事業のために働いているという意味ではなく、
キリストと同一使命、
キリストと同一目的のために、
一心一体となって働いている、
キリストの救いの事業の継承者、また協力者として奉仕している、との意味である。
使徒時代の宣教には、なにゆえしるしと不思議が次々起こり、
いずこにおいてもすばらしいリバイバルが起こったのか、それを解く鍵がここにある。
「弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣(の)べ伝えた。
主も彼らと共に働き、御言に伴(ともな)うしるしをもって、
その確かなことをお示しになった。」(マルコ16・20)
現代の教会に久しくリバイバルを見ることができないとすれば、
そこには何らかの理由が存在するはずである。
その伝えるところのものは、キリスト教か、それとも福音かという点においてである。
もし伝えるものがキリストの福音、まじりなき純粋の福音であるなら、
キリストご自身においても、
彼らと共に働き、
御言(みことば)に伴うしるしをもって、
その確かなことを保証する義務をお負いになるはずである。
主ご自身が立ちあがり、
しるしと不思議を顕(あらわ)し、
リバイバルを起こされるのは、
使徒達が福音を福音として、
正しく伝えることによってのみ保証されているということである。
換言すれば、パウロのように、
真実神の同労者、協力者であることに、すべてはかかっているのである。
その意味においてわたしたちは、
自らを深く反省し糾明(きゅうめい)する必要があると思われてならない。
なぜなら、わたしたちの事業が、火によってテストされる日が、まさに迫っているからである。
あなたの使徒職の実(み)が、
金、銀、宝石であったなら
(永遠の生命の賦与(ふよ)によって聖人を生み出したのであるなら)、
大いなる報酬を受けるであろう。
しかし、木、草、わらであったとするなら、
永遠に恥を受けることとなるからである(コリントの信徒への手紙一3・10~15)。
聖人の司祭にして、熱烈なる信者あり、
熱烈な司祭にして、敬虔(けいけん)なる信者あり、
敬虔なる司祭にして、真面目(まじめ)な信者あり、
真面目な司祭にして、肉的な信者あり。        (使徒職の秘訣より)
この言葉をわたしは忘れることができないのである。
使徒の責任は極めて重大であることを銘記(めいき)すべきである。
「彼らは大胆に主のことを語った。
主は、彼らの手によってしるしと奇跡とを行わせ、
そのめぐみの言葉をあかしされた。」(使徒言行録14・3)