| 第17日 私に従って来なさい | 
    
    
       「だれでも私の弟子になることを望むならば、 
       その人は自分自身を否定し、 
       自分の十字架を取り上げて私に従って来なさい 
       〔私に堅くよりすがり、生きるのにも、また必要ならば、死ぬのにも、 
       全面的に私の模範にならいなさい〕。」(マタイ16・24、詳訳) 
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       十字架の聖ヨハネは、 
       「もし、イエス・キリストを所有せんと真に望むならば、 
       決して十字架なきキリストを探し求めるな。 
       キリストのために苦しむことを知らぬ者は果たして何を知るか、 
       主のために忍ぶ苦しみ、労苦が多ければ多い程、 
       これを忍び十字架を甘受した者は、羨望(せんぼう)に価する者である」と言っている。 | 
    
    
       キリストと十字架とは不可分であり、 
       キリストと真に一致し、キリストに似たいと願うなら、 
       どうしても十字架をさけることはできない。 | 
    
    
       主は、自分の十字架を勇敢に取り上げて、 
       主に従うことは、 
       キリストの弟子(聖人)になるための絶対条件であることを、宣言されたのである。 | 
    
    
       なぜなら、十字架こそは救いの基礎であり、 
       聖化とキリストとの一致を実現する、唯一の手段であるからである。 
       十字架は、神と人間とを、神秘的に、現実的に結びつけ、 
       キリストの死と復活に参与せしめる、聖なる道である。 | 
    
    
       キリストご自身が与え給う十字架を、 
       心から甘受し抱きしめるなら、 
       わたしたちのキリスト化はどれ程迅速(じんそく)に、みごとに成就されることであろうか。 | 
    
    
       しかるに、大多数の人々は十字架を拒否し、 
       成聖の恩恵を避けることを努力しているために、 
       何年経過しても自我が死滅するまでに至らないのである。 | 
    
    
       神を愛する者は、 
       日々の十字架をしっかりと受けとり、 
       万事を自己のキリスト化の益となるようにと 
       抱きしめるのである(ロ-マの信徒への手紙8・28~29)。 | 
    
    
       キリストと共に、 
       カルバリ-山上において十字架につけられた二人の盗賊を想起する必要がある。 
       キリストの左右で、同じ十字架につけられ、同じ苦しみを受けながら、 
       一人は十字架を受け入れ、キリストを受け入れたことによって、天国に迎えられ、 
       他はそれを拒否したことによって、永遠の滅亡に至ったのである。 | 
    
    
       キリストと十字架を、信仰をもって受け入れしものと、それを拒否したものの相違である。 | 
    
    
       大小いかんを問わず、日々の十字架を抱きしめることができる人こそ、 
       間違いなくすでに聖人の域に到達している人なのである。 | 
    
    
       十字架を甘受することによって、 
       自己のキリスト化を完成した聖人は、 
       さらに十字架の受諾によって、 
       キリストのからだなる教会の完成のために、 
       補っているのであり(コロサイの信徒への手紙1・24)、 
       まことにもうひとりのキリストとされ、 
       キリストの救世の事業に、真実参与しているのである。 |