第15日 平和をつくり出す人 |
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「平和をつくり出す人はたちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5・9) |
聖書はキリストご自身のことを「平和の君」ととなえている(イザヤ9・5)。 使徒パウロもまた、「キリストはわたしたちの平和である」(エフェソの信徒への手紙2・14)と言っている。 この二つのみことばは、まことにキリストの人格と、その使命をみごとに表現しているのである。 |
イエス・キリストのみが、神と人類とを十字架によって和解させ、 選民と異邦人との間にある敵意を、 民族と民族との間にある敵意を、 人と人との間にある敵意を取り除き、 両者の間に和解と平和をつくり出すことがおできになるのである。 |
「わたしたちに賜っている聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がれ」(ロ-マの信徒への手紙5・5)、 聖霊の維新によって、愛の人、平和の人に新創造されるのである(テトスへの手紙3・5~6)。 |
平和の祈り 「ああ主よ、我をして御身の平和の道具とならしめ給え。 我をして、憎(にく)しみあるところに、愛をもたらしめたまえ。 争いあるところにゆるしを、分裂あるところに一致を、 疑いあるところに信仰を、誤りあるところに真理を、 絶望あるところに希望を、悲しみあるところに喜びを、 やみあるところに光をもたらしめたまえ。 ああ主よ、我をして慰めらるるを求めずして、慰むることを求めしめ、 理解されるよりも理解することを、愛されることよりも、愛することを求めしめたまえ。 そは我らは自ら与うるが故に受け、ゆるすが故にゆるされ、 己が身をすてて死するが故に、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得るものなればなり。 アァメン。」(聖フランシスコ) |
これ程美しく、平和の精神にみちた祈りが、ほかにあるであろうか。 キリストの愛が、 キリストの平和が、 いかに平和の使徒であるフランシスコのうちに、脈打っていたかを証明するものである。 |
アンネの父オット-・フランク氏が叫ぶように、 「平和は、戦争や暴力によっては決してつくり出すことはできない。」 |
平和は愛によって、 キリストの無限愛、十字架より流れくる贖罪(しょくざい)愛によってのみ、 つくり出されるものである。 平和であるキリストご自身をうちに抱擁(ほうよう)し、 キリストの愛に充満され、 愛によってキリストに変容された人、 全き愛、全き平和がみなぎり溢(あふ)れている人のみが、 真に平和をつくり出し、平和の国、神の国の建設者となり得るのである。 |
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。 また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、 わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、 責められるところのない者にして下さるように。」(テサロニケの信徒への手紙一5・23) |