~聖なる道~



第11日 苦闘しながら
「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、
苦闘しながら努力している。」(コロサイの信徒への手紙1・29)
使徒パウロの不滅に輝く栄光の勝利は、
その絶え間ない苦闘、不屈の努力の賜物であったことを示している。
彼がベストを尽くして宣(の)べ伝えたものは、
栄光の奥義の福音、
「うちにいますキリスト」であった(コロサイの信徒への手紙1・24~29)。
使徒パウロは、キリストご自身より委(ゆだ)ねられた奥義の福音、
「キリストご自身」を伝えるために、
言語に絶する労苦、それをもはるかに越えて苦闘したのである。
この使徒の宣教精神、戦闘活動は、現代のわたし達に対するモデルであり、また挑戦でもある。
密室においての観想生活、
祈りの生活をもつことなく、
さらばとて外的活動に専念することもなく、
ただリバイバルを漫然(まんぜん)と期待するとするなら、
まことに狂気の沙汰(さた)と言うほかはない。

現代の狂気は、ただ機械のみを回転させ、大量生産を夢見ていることにある(印刷・映画・テレビ等)
「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、
キリストのからだなる教会のために、
キリストの苦しみのなお足りないところを、
わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイの信徒への手紙1・24)
教会(エクレシヤ)の完成のために、パウロは文字通り心血を注いで苦闘したのである。
「わたしは自分の行程を走り終え、
主イエスから賜った、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、
このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」(使徒言行録20・24)
と叫んでいるのである。
小さきテレジヤの詩もまた、きわめて感動的であり、心の琴線(きんせん)に触れるものである。
愛するかたよ、おとりください、
わたしのいのちを残りなく、
私は心から望む、あなたのために、
苦しみ、そして死ぬことを。
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はや陽(ひ)は傾き、夕べはせまる。
あなたの十字架をこの身に受けて、
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あなたのために、
イエスよ、
愛で息絶えますように!
わたしたちがこの福音のために、
真実いのちをかけるなら、
わたしたちが本当に福音を恥としないなら、
福音そのものが真価を最大限に発揮してくれるであろう。
福音、
この御名の福音こそは、
ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、
救いを得させる神の力であるからである(ロ-マの信徒への手紙1・16)。
「種をたずさえ、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくる。」(詩篇126・6)