~聖なる道~



第3日 わたしは彼のもの
「わが愛する者はわたしのもの、
わたしは彼のもの。」(雅歌2・16)
「わが愛する者はわたしのもの。」
雅歌の花嫁のこの霊的体験は、
キリストの現存を、
自分自身のうちに発見した喜びの叫びである。
キリストは、もはやだれのものでもない。
愛するものはわたしの独占、完全にわたしのものである。
だれがわたしの愛するものを、わたしから離れさせることができるであろうか。
愛によるこの固い一致は、何ものも切りはなすことはできない(ロ-マの信徒への手紙8・35)
神の現存こそは花嫁の力、歓喜、平和、歌、今やすべてのすべてである。
「わたしは彼のもの。」
花嫁は全存在を愛する者に明け渡し、
キリストのうちに自分を見いだし、
愛する者の腕のうちに抱擁(ほうよう)されつつ、
愛の恍惚(こうこつ)のうちに、かく歌うのである。
おんみの現存はなんとわたしにとり、最高に楽しいことであろう。
ああ愛よ、永遠であれ。
まことにこの愛の抱擁を、外部より妨害するものはなにも無かった。
この熱い抱擁は、永遠に継続するものと信じて疑わなかった。
愛の心地よい陶酔(とうすい)に身をゆだね、思わずも深い眠りをむさぼったのである。
「わたしは夜、床の上で、
わが魂の愛する者をたずねた。
わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。
わたしは彼を呼んだが、答えがなかった。」(雅歌3・1)
自分は今や霊的に豊かに富んでいる。
いつの間にか心に高慢が芽生え、
安逸(あんいつ)に流れ、
霊的生活のリズムを狂わせていたのである。
敵は外部にではなく、
自分自身の肉的な心、性質のうちにひそんでいたのである。
人はだれでも、外敵に対しては警戒するものであるが、
軽率なことに、自分自身の心を取り締まらないものである。
自愛心に対して警戒しないものが、なんと多いことであろうか。
自分の心を取り締まらない人は、口をも取り締まることを忘れている。
「もし、言葉の上であやまちのない人があれば、
そういう人は、全身をも制御(せいぎょ)することのできる完全な人(聖人)である。」(ヤコブの手紙3・2)
沈黙は霊的生活の黄金律であり、神との一致の基調である。
多弁は放心の産物である。
人間に耳が二つ与えられているのは、
一方の耳で神が語り給う声を聞くためであり、他の耳で霊的な人のことばを聞くためである。
口が一つしか与えられていないのは、
沈黙を守り、
つまらないことを言うのをやめて、貴重なことのみを言う、
神の口となるためである(エレミヤ15・19)。
「知者の口の言葉は恵みがある、
しかし愚者のくちびるはその身を滅ぼす」(伝道10・12)
とある通りである。
「油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4・23)
心の取り締まりは、霊的生活の基礎である。