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       「キリストのうちに自分を見いだす」(フィリピの信徒への手紙3・9) | 
    
    
       霊的生活において最も重要なことは、自分自身のうちにキリストの現存を見ることである。 
       全世界のキリスト者に最も親しまれている修道者、 
       ラウレンシ修士(ブラザ-・ロ-レンス)は、彼の生涯の終わりの40年間を、 
       神との親しい沈黙の語らいのうちに、 
       神の現存の絶え間ない意識の中に生活を送ったのであった。 
       「もう信じているのではない、今は見ている、神ご自身を体験している。 
       わたしは明らかに神を見奉っている」と、修士は常に語ったほどである。 | 
    
    
       わたしたちも、修士と同じレベルにまで、神の現存の体験を確かなものとする必要がある。 
       神の現存の体験を深めることが、 
       霊的生活の目的であることは、何人も異論のないところである。 | 
    
    
       霊的生活において今一つ大切なことがある。 
       それは、「キリストのうちに自分を見いだす」ということである。 
       信仰生活の途上において、 
       しばしばエマオ途上の弟子達のように、 
       一切のものが崩壊(ほうかい)し、 
       茫然自失(ぼうぜんじしつ)、 
       全く希望を失い、天涯孤独、自己のミゼ-ルに涙をとどめるすべのないときがある。 | 
    
    
       このミゼ-ルは、二つのことから発生している。 
       第一は、キリストの現存を見失ったこと、 
       第二の理由は、キリストのうちに自分を見いだし得ないことによるのである。 | 
    
    
       聖アウグスチヌスが言ったように、「あなたは、確かに、私たちをあなた自身に向けて創(つく)りたもうたので、わたしたちの心はあなたのなかにいこうまでは、安きを得ないのである。」 | 
    
    
       幼児が目覚めたとき、大声で悲しそうに泣き出すのは、 
       自分が母に抱かれていたはずであるのに、 
       その母の中に自分がいないことを発見した悲しみ、その驚きによるのである。 | 
    
    
       わたしはわが愛する者のために開いたが、 
       わが愛する者はすでに帰り去った。 
       彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。 
       わたしは尋ねたけれども見つからず、 
       呼んだけれども答えがなかった。(雅歌5・6) | 
    
    
       霊的生活の怠慢(たいまん)は、 
       霊魂を冷却させ、 
       キリストの現存を見失わせ、 
       この悲惨の深淵(しんえん)に落とし入れたのである。 
       彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。 
       まことに然(しか)りである。 
       神の現存を見失っているとき、その人には霊的力はない。 
       髪の毛を切り取られしサムソンと同様である。 
       一度(ひとたび)神の現存を体験し、 
       主イエス・キリストを知る甘美(かんび)を味わったものは、彼なくしては生きることはできない。 | 
    
    
       さあ、わたしたちは主に帰ろう。 
       ・・・・・・・・・・・・ 
       わたしたちは主を知ろう。 
       せつに主を知ることを求めよう。 
       主はあしたの光のように必ず現れいで、 
       ・・・・・わたしたちに臨み、 
       雨のように・・・・・潤(うるお)される。(ホセア6・1~3) |