|
「どうか、この神が、ご自身の栄光の豊かな富をもって、 <あなたがたの最も奥にある本質と人格に内住される>聖霊ご自身によって、 大きな力をもってあなたがたのうちの人を強くしてくださいますように。
|
どうか、キリストが、あなたがたの信仰を通して、 あなたがたの心のうちに〔現実に〕住んでくださいますように。 どうか、あなたがたが、愛の中に深く根をおろした者となりますように。 |
こうして、あなたがたが、すべての聖徒たちとともに<その愛を経験し>、 その広さ、 長さ、 高さ、 深さがどれほどのものであるかを理解することのできる力を持ち、 また、あなたがたが知識をはるかに越えたものであるキリストの愛を、 <あなたがた自身の経験を通して、実際的に> 〔ほんとうに〕知るようになり、 またあなたがたが<自分の全存在において>満たされて、 神の充満に達する <すなわち最大限の豊かな神のご臨在をいただき、 神ご自身によって全く満たされ、 あふれているからだとなる>ためです。(エフェソの信徒への手紙3・16〜19、詳訳) |
「私たちすべての者が、 信仰と、 神のみ子についての十分で正確な知識の理解において一致を得るに至り、 真に成熟したおとな<キリストご自身の完全という標準の高さより下に下がらない人格の完全性>、 すなわち、キリストに満ちるものの長さ<彼のうちに見いだされる完全性>という尺度にまで到達することです。」(エフェソの信徒への手紙4・13、詳訳) |
「私たちは、愛に包まれながら、あらゆる点において成長して、 かしらであるかた、 すなわちキリストにまで達しなければなりません。」(エフェソの信徒への手紙4・15、詳訳) |
「最後に言います、主にあって強くありなさい <彼との結合によって力づけられなさい>。 彼からあなたがたの力 <彼の〔無限の〕力が供給するところの力> をくみ出しなさい。」(エフェソの信徒への手紙6・10、詳訳) |
「主につく者は、主と一つに霊になるのである。」(コリントの信徒への手紙一6・17) |
霊的生活とは、神との一致の生活のことである。 霊的生活によってこそ、 わたしたちのうちに、キリストが形成されるのであり、 霊的生活にとって、 神との一致した度合いに応じて、 キリストに似たものに変容されるのである。 |
「だれでも私について来ようと思うならば、 その人は自分自身を否定し、 日々自分の十字架を取り上げて、 私に従って来なさい 〔私に堅くよりすがり、生きるのにも、また必要ならば、 死ぬのにも、 全面的に私の模範にならいなさい〕。」(ルカ9・23、詳訳) |
自己放棄、十字架、全面的にキリストにならうこと。 神に生きるためにこそ、 自己に死ぬ生活、 これが霊的生活の本質、基調である。 |
聖人(神の人、神に用いられる器)になるか、なり得ないかの分岐点、 自己のキリスト化の成否は、実に日々自己を捨て、 十字架を甘受(かんじゅ)し、 キリストを模倣するか否かにかかっているのである。 |
霊的生活は、絶え間ない、内心における祈りの生活である。 「わが神よ、わがすべてよ。」 聖フランシスコは、この短い祈りをもって、その生涯を貫いたのである。 大切なことは、神の現存の意識と、つねに祈りの精神のうちに生きることである。 |
神に満たされるためには、神ならぬ一切のものを、 心から追放しなければならない。 一番拒否せねばならぬものは、ほかではなく自我である。 |
自我の全く死滅した人、 その人においてこそ神はすべてのすべてであられるのである。 |
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。 キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20) |
その人にあっては、文字通り、このみことばがみごとに実現されているのである。 |