「父よ、彼らを赦(ゆる)し給え。その為(な)す所を知らざればなり。」(ルカ23・34) 主が十字架より最初に発せられし御言葉は、 自分をかくまで苦しめる者共に対しての呪詛怨嗟(じゅそえんさ)の声ではなく、 却(かえ)って彼等の無知盲目を憐れみ給うて、 彼等の罪の赦しを御父に祈り給うのであった。 |
キリストの罪人に対する無限の愛が十字架上に破裂(はれつ)して遂に流れ出(い)でたのである。 何と感ずべき古今未曾有(ここんみぞう)の美しき感激的光景であろうか。 |
人間の憎悪(ぞうお)が頂点に達した時に、 凡ての敵に、無条件に、全面的に、 無制限に腹の底から無類の愛をもって赦し給うたのである。 パリサイ人、サドカイ人、祭司長、学者、ユダヤ人も異邦人(いほうじん)も、 兵士、自分を裏切った弟子、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、 盗人にも姦淫(かんいん)の女のためにも赦しを執成(とりな)し給うたのである。 |
敵の憎悪と侮辱(ぶじょく)に報ゆるに愛と赦しとをもってなし給うた。 しかして彼等の恐るべき罪をば無知盲目に帰し給うた。 |
今や主は大祭司長として遍(あまね)く全世界の凡ての人の、 凡ての罪のために仲保者(ちゅうほしゃ)として執成(とりなし)をなし給うたのである。 この大いなる貴き犠牲とこの執成(とりなし)の祈りによってこそ、 如何なる罪人も如何なる罪も赦されざるものはないのである。 |
キリスト者たる者、またキリストにならいて悪に報ゆるに悪をもってせず、 ただ愛をもって嘲笑者にも迫害者に対しても 十字架上のキリストに固く一致して「父よ、彼らを赦し給え。 その為(な)す所を知らざればなり」と赦し祈るべきである。 赦しと愛とはキリスト教精神の特質である。 |