〜十字架の黙想(第20日)〜



「父よ、彼らを赦(ゆる)し給え。その為(な)す所を知らざればなり。」(ルカ23・34)
主が十字架より最初に発せられし御言葉は、
自分をかくまで苦しめる者共に対しての呪詛怨嗟(じゅそえんさ)の声ではなく、
却(かえ)って彼等の無知盲目を憐れみ給うて、
彼等の罪の赦しを御父に祈り給うのであった。
キリストの罪人に対する無限の愛が十字架上に破裂(はれつ)して遂に流れ出(い)でたのである。
何と感ずべき古今未曾有(ここんみぞう)の美しき感激的光景であろうか。
人間の憎悪(ぞうお)が頂点に達した時に、
凡ての敵に、無条件に、全面的に、
無制限に腹の底から無類の愛をもって赦し給うたのである。
パリサイ人、サドカイ人、祭司長、学者、ユダヤ人も異邦人(いほうじん)も、
兵士、自分を裏切った弟子、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、
盗人にも姦淫(かんいん)の女のためにも赦しを執成(とりな)し給うたのである。
敵の憎悪と侮辱(ぶじょく)に報ゆるに愛と赦しとをもってなし給うた。
しかして彼等の恐るべき罪をば無知盲目に帰し給うた。
今や主は大祭司長として遍(あまね)く全世界の凡ての人の、
凡ての罪のために仲保者(ちゅうほしゃ)として執成(とりなし)をなし給うたのである。
この大いなる貴き犠牲とこの執成(とりなし)の祈りによってこそ、
如何なる罪人も如何なる罪も赦されざるものはないのである。
キリスト者たる者、またキリストにならいて悪に報ゆるに悪をもってせず、
ただ愛をもって嘲笑者にも迫害者に対しても
十字架上のキリストに固く一致して「父よ、彼らを赦し給え。
その為(な)す所を知らざればなり」と赦し祈るべきである。
赦しと愛とはキリスト教精神の特質である。