〜十字架の黙想 第4日〜



主がゲッセマネの園で祈り終え給いし時、
静寂は破られオリーブの木々の繁みの間から松明(たいまつ)が燃え、
武装せる人々が突如として主に向かって進んで来た。
悪しき者等がその憎むべき不徳不義極まる計画を遂行せんとする時、
如何なる熱心と周到なる用意とをもってなすかをみよ。
主と間違えて他の弟子を召(め)し捕る様なことがあってはならぬと
「わが接吻(くちづけ)する者はそれなり、これを捕まえよ」(マタイ26・48)と。
ユダはかって主が幾度も捕え殺さんと謀(はか)りし者達の手より遁(のが)れ給いしを知り、今度こそ確かに捕え決して遁(のが)さざる様かくも奸智(かんち)をめぐらし来(きた)ったのである。
愛する人々よ!主を売り渡すためでなく、
主を心の衷(うち)に把握し宿し奉るために如何(いか)程の熱心周到なる準備をなし居らるや。
主を捕え奉(まつ)るには信・望・愛の一条の綱でよいのである。
「我を愛する者は我が父に愛せられん。我も之を愛し、之に己を顕(あらわ)すべし。」(ヨハネ14・21)
「我を愛する者は我これを愛する、我を切に求むるものは我に遭(あ)わん。」(箴言8・17)
さて接吻は親しみと愛を忠誠を表す徴(しるし)であるが、
この大きい愛の徴(しるし)の下(もと)に自己の恐ろしい目的のために愛の徴(しるし)をもってなすのである。
師たり主たる御者を、敵に売りわたす憎みても余りある弟子に対して主は言い給うた。
「ユダ、なんじは接吻をもって人の子を売るか」と。
短い言葉ではあるが、ユダのかくの如き、然り人類の歴史が始まって以来かってなき叛逆、嫌悪すべき裏切手段を静かにとがめ給うた。
愛の徴(しるし)の接吻をもって主を敵の手に付(わた)す符牒(ふちょう)とした。
しかるに主は今かくもいむべき最初の侮辱を忍耐をもって、ユダのなすがままに受け給うた。
叛逆者裏切者の接吻、思うだに身の毛のよだつものがある。
始めより極(きわみ)まで愛し給いし主の御愛に報ゆるにかかる接吻をもって返礼となしたのである。
何たる非道の行為であろうか。
しかるに主は「友よ、ユダよ」と呼び給うた。
彼の良心の幾分かでももどさんとしてである。
それは幾度主の御口より信愛をもって呼び給いし名前であったか。
しかし主の最後の努力も愛も頑固(かたくな)になった心のために、はね返されてしまったのであった。
それにしても如何程(いかほど)の値段で主は売られ給いしか、価(あたい)の安い事はまた侮辱であるからである。
ユダは天地の創造者、恵の主、愛の主、永遠の生命(いのち)そのものに在す主を、たった30銀で売ってしまったのである。
何と安い値段であろうか、奴隷(どれい)の代価である。
奴隷の如くにではなく、全く奴隷とみなされ給うたのである。
ユダの罪はわれらが知れる限りの人類史において最も邪悪にして破廉恥(はれんち)な行為である。
受けし恩義に対して悪をもって報ゆるは如何に悪魔的であろうか。
善に対して単に善をかえすは人間的な事であり、
悪に対して善をもって報ゆるは神的である。
「汝らの仇(あだ)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」(マタイ5・44)
主は自ら教え給いし教訓を今や自ら実行して模範を示し給うた。
神は罪人を贖うに銀や金の如き朽つる物によらず、
瑕(きず)なく汚点(しみ)なきキリストの貴き血(生命)をもって買い給うたのである(ペトロの手紙一・18以下)。
人がまたしても罪を犯し叛(そむ)きても尚(なお)神が捨て亡ぼし給わざるは、
罪人に対する無限の愛と、その贖代(あがないしろ)のあまりにも高価なりし故である。