御言葉を生きる


~わたしによって生きる~



ヨハネによる福音書6:52~56
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、
互いに激しく議論し始めた、
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、
わたしはその人を終わりの日に復活させる。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、
わたしもまたいつもその人の内にいる。」

聖なる道第21日
キリストの偉大な生涯、そのすばらしいみ業のすべては、キリストのうちに現存された父によって、
営まれたものである。
それと同様に、あなたがたもまた、わたしのいのちそのものによって生くべきであり、
そうすることによってのみ、あなたがたの地上生活は、まさしくわたしの地上生涯の再現・延長
となるのである、との意味である。

使徒行伝において使徒達をリードし、
使徒達に在って行動したものはキリストご自身にほかならなかったのである。

父はキリストにあって、ご自身のみわざをなされたのであり、
キリストは使徒達のうちにあって、ご自身のみわざを継続されるのである。
この
原理を深く黙想し、かつ把握し、この原理原則に自分自身を完全に適応させねばならない。

使徒パウロは、この
原理原則を最大限に応用し、彼の使徒活動のすべてとし、
原動力としたことによって、あの輝かしい勝利を獲得したのであった。

パウロ書簡の鍵語は、「キリストにあって」、「キリスト・イエスにあって」、
「キリスト・イエスにおいて」であることは、すべての人のよく知るところである。
それは、あたかも人形使いが、たくみに人形を操るように、パウロの使徒活動を操った方が、
彼のうちにいますキリストであったことを表現しているのである。

どうしても、神に生きるためには、完全に自己に死なねばならないということである。
もはや自分の意志を持たない人、キリストご自身の意志を、自分の意志とする人であらねばならない。
人はキリストの意志を持つことによってのみ、神に自由に操られる存在となり得るからである。

使徒パウロは、「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかた」(コリントの信徒への手紙一 4・17)
とその生活方式を説明しているのである。
これこそは、彼の霊的生活の方式・秘訣なのである。
この
生活方式から、使徒行伝のリバイバルが生み出されたのである。
「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)
「わたしにとっては、生きることはキリストである」(フィリピの信徒への手紙1:21)
との
方式である。