マタイによる福音書16:21~26
イエスは振り向いてペトロに言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。
神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、弟子たちに言われた。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
聖なる道 第17日 私に従って来なさい
主は、自分の十字架を勇敢に取り上げて、主に従うことは、
キリストの弟子(聖人)になるための絶対条件であることを、宣言されたのである。
なぜなら、十字架こそは救いの基礎であり、
聖化とキリストとの一致を実現する、唯一の手段であるからである。
十字架は、神と人間とを、神秘的に、現実的に結びつけ、
キリストの死と復活に参与せしめる、聖なる道である。
キリストご自身が与えたもう十字架を、心から甘受し抱きしめるなら、
わたしたちのキリスト化はどれ程迅速に、みごとに成就されることであろうか。
しかるに、大多数の人々は十字架を拒否し、
成聖の恩恵を避けることを努力しているために、
何年経過しても自我が死滅するまでに至らないのである。
神を愛する者は、日々の十字架をしっかりと受けとり、
万事を自己のキリスト化の益となるようにと抱きしめるのである(ローマの信徒への手紙8:28~29)
キリストと共に、カルバリー山上において十字架につけられた二人の盗賊を想起する必要がある。
キリストの左右で、同じ十字架につけられ、
同じ苦しみを受けながら、一人は十字架を受け入れ、
キリストを受け入れたことによって、天国に迎えられ、
他はそれを拒否したことによって、永遠の滅亡に至ったのである。
キリストと十字架を、信仰をもって受けいれたものと、それを拒否したものの相違である。
大小いかんを問わず、日々の十字架を抱きしめることができる人こそ、
間違いなくすでに聖人の域に到達している人なのである。
十字架を甘受することによって、自己のキリスト化を完成した聖人は、・・・・・
まことにもうひとりのキリストとされ、キリストの救世の事業に、真実参与しているのである。