ヨハネによる福音書19:28〜30、十字架の黙想第24日
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられはのを知り、
「渇く」と言われた。
こうして、聖書の言葉が実現した。
「われ渇く。」しかしこの渇きは単なる肉体的渇きではなく、
更に深刻な霊的渇きである。
折角苦しみ、尊い犠牲を払って、
血を流し成就なし給いし十字架の贖いが無益にならざるように、
人類が永遠の生命、活ける水を真に渇き慕い求めんことを渇望する渇き、
人々の愛を要求してやまざる霊的渇きなのである。
我らは主を渇望せず、とるに足らない被造物、
この世の富、知識、名誉、快楽を望み、渇き喘ぎ求めているのである。
「人、全世界をもうくとも、己が生命を損せば、何の益あらん。」(マタイ16:26)
我等もまた主の御血(永遠の生命)に酔わしめられないかぎり霊魂に真の満足はなく、
霊魂の渇きをいやすことは出来ない。
「イエス言い給う『すべてこの水(被造物)をのむ者は、また渇かん。
我があたうる水(永遠の命)を飲む者は、永遠に渇くことなし。
わが与うる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいずべし』(ヨハネ4:13〜14)と。
人は罪のみ犯して主をまたしても十字架に釘け奉り、
主に苦しみを与えることのみなすのである。