〜罪をゆるす人の子との出会い〜


「イエスは彼らの信仰を見て、
中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」(マルコ2・5)
「『人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために』
と彼らに言い、
中風の者にむかって、
『あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ』と言われた。」(マルコ2・10〜11)
「すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、
一同は大いに驚き、神をあがめて、
『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と言った。」(マルコ2・12)
マルコによる福音書が書かれた目的は、
その巻頭の一章一節「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」
とのことばにおいて、すでに明らかに示されている。
マルコによる福音書は、イエスのメシヤ性を証明するのみではなく、
厳密な意味において、イエスが神の子であること、
換言すればイエスの神性を啓示するのが、その目的なのである。
もっと率直に言えば、イエスが神であることを証明する目的のもとにしるされたのである。
マルコ福音書はこの光、この鍵をもって開くべきである。
本福音書は総体的に素朴であり、単純であり、きわめて迫力にみちているのが特色である。
イエスの宣教は、その初期において、
彼を信ずる人々にとっても、また彼を信じない人々にとっても、強烈な印象を与えた。
わけてもイエスによって行われる数々の奇跡は、大きな衝撃と感動を与え、
ユダヤ、ガリラヤ全土に大センセーションを巻き起こすに至った。
「イエスがまたカペナウムにお帰りなったとき、
家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集ってきて、
もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。」(マルコ2・1〜2)
イエスとの出会いを求めて、ここに集ってきた群衆の多くは、
必ずしもイエスを神より遣わされたメシヤとして、正しく信じていたわけではなかったが、
群集心理に動かされ、今や熱狂的とも、爆発的とも言える状態になっていたのであった。
「イエスは御言(みことば)を彼らに語っておられた。」(マルコ2・2)
群衆がかくもイエスに魅了されたのは、その奇跡に好奇心を抱いてのことである。
今や群衆は奇跡という熱病にとりつかれていたのである。
このような熱気を冷ますために、
イエスへの正しい信仰に導く必要性のために、イエスは御言葉を語られて他のであった。
それは「神の子イエス・キリストの福音」であった。
イエスが説教中のことである。
「すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
ところが、群衆のために近寄ることができないので、
イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、
中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。」(マルコ2・3〜4)
中風のため歩行不能となっているあわれな病人を、
いやしていただきたいとの切なる願望のゆえに、
床に乗せたまま運んできたのであったが、
家の中は群衆が立錐(りっすい)の余地もなく立っているために、
イエスに近寄ることができなかった。
しかし、信仰は退くことを知らない。前進することのみを知る。
ここで失望し、あきらめ信仰を捨てることはしなかった。
彼らは家の外側の階段を登り、屋根をはがし大きな穴を開け、床のまま、
病人をイエスの顔前につりおろしたのである。
この一見無謀とも思われる行為を、彼らは試みたのである。
「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。
そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11・12)
この人々もまことに天国を激しく襲う、よい意味における暴力団であった。
「イエスは彼らの信仰を見て、
中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」(マルコ2・5)
イエスご自身は、この説教中の乱入者とも思われる彼らの行為をとがめるどころか、
かえって彼らの信仰に感嘆し、その信仰のゆえに罪のゆるしを与えられたのであった。
ここにおいて留意すべきことは、主が彼に対して罪のゆるしを宣言されたのは、
彼らの強引とも思われる積極的行動のためではなく、
また、なにがなんでも式の、向こう見ずな熱心のためでもないのである。
彼らのうちにあった、イエスのメシヤ性に対する信仰、神性に対する厚い信仰、
彼らが抱いていた、神の子イエス・キリストへの信仰の正統性のゆえである。
この点こそは最も明白に区別しなければならない。
なぜなら、多くの人々が、彼らの熱心な行為のゆえにと、考え違いをしているからである。
さて、当時ユダヤ教の通念において、
病気は罪の結果として与えられる罰と思われていた。
病いと死が人類の中に入ってきたのは、人祖アダムが罪を犯し、
原罪を宿したことに起因していることは事実であるが、
イエスご自身はそれに実に新しい解釈を与えらえたのであった(ヨハネ9・2〜3)。
しかし、この病人に対して「あなたの罪はゆるされた」と言われたのは、
この人の場合、罪と病とが密接なつながりを持っていたためと思われる。
そこで、この病より解放するために、その原因である罪にメスを入れ、
罪から解放することによって、病をも根本的にいやすためであった。
ヨハネによる福音書第五章にも、その実例が示されている(ヨハネ5・14)。
イエスによる救いのテーマの深さは、神癒(しんゆ)にあるのではなく、
罪よりの全き解放にある。
この罪のゆるしの宣言において、
イエスは、ご自身が真実罪をゆるす権能をもつものであることを啓示されたのである。