〜待ち望まれた幼な子との出会い〜


「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9・5)

「この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。」(ルカ2・25)
「シメオンは幼子を腕に抱き・・・・・・・」(ルカ2・28)
「わたしの目が今あなたの救いを見たのです。」(ルカ2・30)
人祖アダムが喪失したエデン(パラダイス)を回復するメシヤ、
人類を罪と死よりあがない開放し、永遠の生命を賦与(ふよ)する救世主、
全世界に離散し、悩み苦しむ受難の民イスラエルを、シオンの地に呼び集め、
全的にイスラエルをあがない回復する栄光のメシヤ、
太祖アブラハムと契約を結び、その約束を完全に実現成就するメシヤを、
イスラエル民族は世紀の流れを通じて待ち望み続けたのである。
「エルサレムにシメオンという名の人がいた。
この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。」(ルカ2・25)
老預言者シメオンもまたそのひとりであった。
彼の人生の目的・目標は、イスラエルの希望であり慰めである、アブラハムの子であり、
ダビデの子である約束のメシヤを、
自分自身の目で見ることであり、自分の腕に抱くことであり、
神の救いを現実的に体験することであった。
旧約時代の最後の預言者であったマラキの預言(紀元前440年〜430年)は、
いっそうメシヤへの希望と憧憬(どうけい)をかりたてた。
「見よ、わたしはわが使者(マルアーク=メシヤの先駆者)をつかわす。
彼はわたしの前に道を備える。
またあなたがたが求める所の主(アードーン)は、たちまちその宮に来る。
見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者(約束されたメシヤ)が来ると、
万軍の主が言われる。」(マラキ3・1)
それゆえ、ユダヤの伝統的正統派の人々の希望は、
メシヤの御来臨への期待に集中されていたのである。
シメオンは、その象徴的・代表的人物でもある。
老預言者シメオンは、何人(なんびと)にもまさってメシヤを待望し、
一日千秋の思いをこめて、
今か今かと待ち望み、神殿に入り常に祈っていたのである。
彼にとって、人生の目的・目標は唯一であった。メシヤこそそれであった。
人生はある意味において一つの賭(か)けとも言えるであろう。
人生の価値は、その賭けたものの価値によって決定されもするのである。
シメオンは、その全生涯のすべてを唯一のものにかけたのである。
ある人は金に、地位名誉に、また恋愛ににかけるであろう。
しかし、シメオンはそれらの地上的なものにではなく、天的なもの、永遠なるもの、
メシヤご自身にかけたのである。
神は愛であり、真実な御者であられ、彼を信ずるものを恥ずかしめられることは決してない。
「聖霊が彼に宿っていた。
そして主のつかわす救主(メシヤ)に会うまでは死ぬことはないと、
聖霊の示しを受けていた。」(ルカ2・25〜26)
彼は正しい信仰深い人であったがゆえに、
神よりの啓示を疑うことなく、必ずメシヤに出会い、
メシヤを抱き得るとの確信に生きていたのである。
「この人が御霊に感じて宮に入った。」(ルカ2・27)
シメオンの長かったメシヤ待望の期待に、ついに終止符が打たれるその時が来たのである。
「時の満ちるに及んで、神は御子(キリスト)を女から生まれさせ、
律法の下(もと)に生まれさせて、おつかわしになった。
それは、律法の下(もと)にある者をあがない出すため、
わたしたちに子たる身分(神の子としての特権)を授けるためであった。」(ガラテヤの信徒への手紙4・4〜5)
イザヤが「ひとりの男の子」の誕生を預言して750年、
マラキが「あなたがたの喜ぶ契約の使者(メシヤ)が来る」と預言してより440年の永い歳月が流れ、
ついに待たれたメシヤが忽然(こつぜん)として、その宮に来られたのである。
しかし、メシヤは、イスラエルの人々が予想していた姿とは全く異なった容姿(さま)において出現されたのであった。
「すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきた。」(ルカ2・27)
イスラエル民族が世紀の流れを通じて待望したメシヤは、
「その名は・・・・・『平和の君』ととなえられ、
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、
その国(メシヤ王国)を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる」(イザヤ9・6〜7)と、
イザヤが預言したところの栄光に輝くメシヤであった。
ローマ帝国の支配から完全にイスラエルを解放する、政治的なメシヤであった。
ユダヤ人(びと)は栄光に輝くメシヤ・イメージによって目がくらみ、
イザヤの前半の預言、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた」(イザヤ9・5)との預言を見落としているのである。
しかし、聖霊を宿し、御霊に感じていたシメオンは、決してメシヤを見違えることはなかった。
その母マリヤに抱かれて神殿に入ってきた幼子イエス、
このお方こそイザヤが指し示した、まさしくひとりの男の子であった。
「シメオンは幼子を腕に抱き」(ルカ2・28)待ちに待ったメシヤをしかりと抱きしめ、
老預言者は感動に打ち震えながら、幼子なるメシヤをしみじみと見つめるのであった。
歓喜の涙がとめどもなく流れ落ちる。
その感動は言語に絶するものであり、
メシヤご自身を自分自身のものとして抱いた者のみが味わい知るところのものである。
シメオンは感極まり、メシヤが人類にもたらす偉大な救いの賛歌を、声高らにうたうのである。
「主よ、今こそあなたはみ言葉のとおりに
この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。

わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。
この救いはあなたが万人のまえにお備えになったもので、
異邦人を照らす啓示の光、
み民イスラエルの栄光であります。」(ルカ2・29〜32)
聖霊の啓示のもとに、彼は敏感にメシヤの栄光と、メシヤの使命を正確にとらえる。
彼がいかに完全にイエスの本性と、メシヤとしての使命とを把握したかは驚くほかはない。
それは、ユダヤ人が抱いていた一般的通念をはるかに超えるところの視野である。
とぎすまされた清澄な彼の霊魂は、自分の腕に今抱きしめている幼子イエスにおいて、
メシヤの栄光と使命を、神と神の救いの全貌を見ているのである。
信仰の眼指(まなざ)しのみが、
肉眼で見ることのできないものを的確に見てとることができるのである。
かえりみればそれは実に長い、ながい待望の生涯であった。
この希望のゆえに、この瞬間まで生き続けてきたのであった。
愛なる神は約束通り、
キリストを見るのみではなく、しかと自分の腕に抱かせてくださったのである。
望みは今こそ完全に満たされたのである。
「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。」(ルカ2・29)
この一語の中に、いかに大いなる感動と満足とがこめられ表現されていることであろう。
彼が死を望むのは、すでにメシヤによる永遠のいのち、
神の救いそのものを現実的に体験したからであり、
メシヤご自身を顔と顔と合わせて見たからである。
真正の神であり、永遠のいのちそのものであられる生けるキリストご自身を、
実体的に現実的に抱いているものにとっては、
もはや死は死ではなく、それは、安らかなねむりにほかならない。
老預言者シメオンは、この感動と歓喜、メシヤの救霊(すくい)の頂点において、
メシヤご自身をしっかりと抱きながら、
天的恍惚(こうこつ)のうちに真の安息に入りたいと願うのである。
シメオンのこの賛歌は、メシヤによる救いの全貌をもかいまみせるのである。
「この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもの」(ルカ2・31)
メシヤによって与えられる救いの恩恵は、単に一ユダヤ民族にとどまらず、
全人類に対して普遍的に提供されているものであることをも啓示するものである。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世(全人類)を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
まことにイエスこそは、
「異邦人を照らす啓示の光、
み民イスラエルの栄光であります。」(ルカ2・32)