〜インマヌエルとの出会い〜


すべてこれらのことが起こったのは、
主が預言者によって言われたことの成就するためである。
すなわち、『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。』
これは、『神われらと共にいます』という意味である。」(マタイ1・22〜23)
「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。
その子をイエスと名づけなさい。」(ルカ1・31)
「そこでマリヤが言った、
『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』(ルカ1・38)
イスラエルの大預言者イザヤが、「主はみずから一つのしるしをあなた方に与えられる。
見よ、おとめがみごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7・14)と、
メシヤ御降誕の預言をしたのは、紀元前740年のころである。
このメシヤの受肉の神秘的な意味を、
イスラエル民族がどれ程深く認識していたかは別問題として、
メシヤ待望は世紀の流れを通じて脈(みゃく)々として生き続けてきたのである(ルカ3・15)
メシヤこそは選民のビジョンの中心テーマであった。(それは現在においても不変である。)
聖処女マリヤは、神との親しい交わりのうちに、絶えず来るべきお方、
メシヤへの観想に心を奪われるのが常であった。
そのときもマリヤは、深い観想の中にひたり、メシヤ待望の熱烈な望みに、
われを忘れ恍惚(こうこつ)とし、夢を見る人のごとく、神に酔える人のようであった。
「メシヤよ、来たりませ!」それが彼女の祈りであり、
この祈りの中に彼女の願望のすべてがこめられていたのである。
この祈りは彼女の心底から湧(わ)き出る、霊の呼吸でもあった。
「御使がマリヤのところに来て言った、
『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。』(ルカ1・28)
イスラエル民族は永い世紀にわたり、約束されていたメシヤを、
期待のうちに待ち望んできたが、
神ご自身もまた、インマヌエルの預言をみごとに実現成就するために、
全き献身者を、聖なる処女の出現を待ち望まれたのである。
神はご自身の救いの偉大な計画を実現するために、
真に協力するおとめを、マリヤという名のおとめにおいて ついに見いだされたのである。
神の待ち望みと、人間の待ち望みとが、ついに頂点に達し一つに融合した時、
神は重大メッセージを御使いに託し、マリヤのもとに派遣されたのであった。
人類はまさに新しい世紀、新約時代のすばらしい幕開け、
黄金色に輝くしののめの曙光(しょこう)を、ガブリエルの来訪と共に迎えたのである。
天使はマリヤに出会って語りかけた。
「神の恵みで充満されている方よ、本当におめでとう。
神の現存があなたと共にあるのだから。」
ガブリエルは天使の眼差(まなざ)しのもとに、
何が人生にとって最も幸福であるかを知っていた。
神の聖寵の充満を受け、神の現存の体験を確実に所有していることのみが、
本当に祝福されたものであることを知っていた。
観想家であるマリヤは、胸をとどろかせつつ、
天使のことばの意味を正確に理解したいと思いめぐらす(ルカ1・29)
「すると御使いが言った、
『恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。
見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。
その子をイエスと名づけなさい。
彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。
そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、
彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう。』(ルカ1・30〜33)
マリヤは天使によって告げられた、神よりの重大メッセージに耳を傾け聞いている。
それはマリヤにとって、全く未知のメッセージではなかった。
絶えず瞑想(めいそう)し続けたものであった。
「おとめがみごもって男の子を産む。」
単に女(婦人)がみごもって子を産むということではなく、
おとめが処女でありながら、その童貞性の純潔を失うことなくして、
メシヤを産むとの意味である。
それはいまだ人類史の中で前例のないことである。
まことにこのテーマは厚いベールに包まれている。
マリヤにはその神秘が十分には理解できなかった。
けだし当然と言うべきであろう。
それは、人知をもってはとうていはかり知れない最奥の神秘に属するものである。
メシヤの受胎告知は、マリヤにとって重大テーマである。
それゆえマリヤは、この神秘を十分把握したいとの望みにかられ、
つつましく謙遜にききただす(ルカ1・34)
ガブリエルはマリヤの質問に答える。
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。
それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、
神の子と、となえられるでしょう。」(ルカ1・35)
それは、人間の出生とは全く次元を異にするものであり、
全く超自然的であり、聖霊が望むことによってのみ実現されるものである。
それゆえ、生まれ出る子は無原罪であるばかりでなく、
聖なる存在であり、本性上神の子なのである。
ロゴスの受肉、インカーネーションの秘儀を、端的に表現すれば、
神が人となり給うという、空前絶後の神秘なのである。
ロゴスが受肉され人間性をとられても、
神が人間に変化するのではなく、
その神性を失うことなく完全に保有しながら、
まがいなく真の人間となられることを意味する。
したがって、ロゴスが受肉し、メシヤがこの地上に来臨するためには、
どうしても、ひとりの聖なるおとめの積極的な協力を必要としたのである。
そのためにこそ、神はマリヤのもとに天使を派遣されたのであり、
彼女に自発的な受諾を求められたのである。
マリヤは今こそメシヤの受肉の神秘を深く理解したのであった。
聖ベルナルドのことばが、こだましてひびいてくる。
「ああ、聖なるおとめよ、ご回答を急いでください。
天も地も、首を長くしているおことばを。
神ご自身も、あなたの回答をお待ちです。」
「そこでマリヤが言った、
『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。』(ルカ1・38)
マリヤは「フィアット(成りますように)」をもって、全世界の運命のために、
神がメシヤによって計画しておられる人類救済のために、
全存在をかけて回答したのである。
かくしてロゴスは人間性をとられたのである。
その瞬間、マリヤは自分自身の最も深い核心において、
インマヌエルとの出会いを体験したのであった。
マリヤの比類のない信仰、従順、献身によって、
ロゴスの受肉の預言、神の人類救済における最も重要な御計画が、
みごとに実現成就されたのである。
それは人類の歴史の中で、最も決定的な重大な意義をもつ瞬間であった。