「主を知ることを追い求めよう」


【聖書のことば】
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。
わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。<ホセア6:1〜>
恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように。<ホセア10:12>

 ただいま拝読いたしましたホセア書は、聖書の中でも、情感豊かな予言の書です。そこには、神の御心からあふれ出た痛々しいまでの愛が表現されています。
 多くの預言者が、人々の悪に焦点を当て、悪を責め立てるのに対して、ホセアは、神ご自身にスポットライトを当て、神はどのような方なのだろうか。ご自分の民が、ご自分に背を向けて遠ざかっていくとき、神はどのように感じられるのだろうかを告げ知らせるのです。神の心を表現するには言葉だけで、十分ではありませんでした。神はホセアに、生きたたとえをもって、それを表現するようにと命じられるのです。

 神はホセアに、ゴメルというふしだらな女と結婚するように命じられます。すぐに妻はホセアのもとを離れ、姦淫を犯します。そのときの心の痛みを通して、ホセアは、イスラエルが神から離れるとき、神がどのように感じられるかを理解したのです。
 モーセの律法によれば、ホセアは彼女を通りに引き出すことも、法廷に連れて行くことも出来ました。しかし、神がホセアに命じられたことは、全く正反対のことでした。

 主は再び、ホセアに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」
ホセアは、命じられたとおり、代価を払って妻を買い戻しました。このことを通して、神は、もう一度、新たなチャンスを与えることを約束しました。それは未来において、神が与えられる
すばらしい救いをあらわすものです。
 
 なぜイスラエルは、失敗したのでしょうか。神を知らなかったからです。神の知識を持たなかったからです。そこにすべての原因があります。

「この国には、誠実さも慈しみも 神を知ることもないからだ。」<ホセア4:1>と神は言われるのです。
 その結果、「 呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり 流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き そこに住む者は皆、衰え果て 野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。」<4:1〜3>

「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」<6:6>
と、主は語っておられるのです。
 彼らは宗教の儀式は守っていましたが、ただ表面的に守っているだけで、神を喜ばせることはできませんでした。神の御心を、真実喜ばせることのできるもの、それは愛であり、神を知ることです。
ですから、預言者ホセアは、声を大にして訴えます。
 「主を求めるときが来た」<ホセア10:12>
  主こそ万軍の神 その御名は主と唱えられる。

 神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち 常にあなたの神を待ち望め。<12:6,7> 
今日の世界の混乱は、すべてのもをを認めようとして、あまりにも寛容になり,何が大切なものなのか、価値あるものなのかを、見失ってしまったからです。
神を知ることは、私たちの人生の基盤となり、方向を示し、目標を与えるものとなり、さらには、何を第一としなければならないかという原則と、価値観の基準ともなるべきものです。

 私たちは何のために造られたのでしょうか。神を知るためです。
私たちは人生の目的を何に定めたらよいのでしょうか。神を知ることです。
イエスが与えてくださる「永遠のいのち」とは何でしょうか。神を知ることです。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(ョハネ一七・三)。とイエスは、語られました。

 人生において、ほかのいかなるものよりも、より大きな喜びと、感激と満足をもたらす、最善のものは何でしょう。神を知ることです。
 ある人は、化学が好きだから、これとこれを化合させると、どうなるかを良く知っています。しかし、彼は、自分がなぜ生きているかをまだ知っていない。とすると、彼が本当に知っていることはなにでしょうか。

 ある人は、望遠鏡で、何万光年の遠い星を眺めている。しかし、彼はまだ神を発見していない。この人の真実に知っていることは何でしょうか。
ラジオのクイズの難問をすらすらと解くことのできる人がいます。しかし、彼にとって、キリストはまだ未知の人です。いったい彼は何を知っているのでしょうか。

神も、キリストも知らない人は、いったい何を知っているのだろう。(聖フランシスコ・ザベリオ)
「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。

 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。 <エレミヤ9:22―:23>

 あなたが今生きていることの主要な目的は、神を知ることである、ということに気がつきさえすれぱ、人生の大部分の問題は、それぞれのふさわしい所に位置づけられていきます。それは、真の成功の秘訣であり、困難の乗り切る力であり、権力よりも、地位よりも、価値のあるものです。あなたは、神を知りたいと思わないでしょうか。

「神を知ること」。神を知ること以上に、高く、崇高であり、人を動かさずにはおれない目的があるでしょうか。「人生の真の目的目標、神こそそれである」

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」<6:3>

 神を知ることは、神の知識を以上のものです。また特殊な感情や、幻を見ることや、心の中をよぎる不思議な思想を発見することでしょうか。いかなる時、いかなる出来事が、神を知っているということができるのでしょうか。神を知るということは、友達を知ることよりも、もっと複雑なことであるのは、明らかです。それはちょうど、自分の家の近くの人を「知る」事のほうが、家や、本や、言葉を知ることよりももっと複雑なことであるのと同様です。

 知ろうとする対象が複雑であればあるほど、それを知ることも複雑となるのです。対象が動物や植物であれば、その行動や、環境を緻密な観察によって理解し、知ることができるでしょう。
しかし、人間の場合には、自分を隠し、その心の中にあるすべてのことを示そうとしない限り、理解することができないのです。何年も何年も、一緒に仕事をしていても、「彼のことは少しも知っていない」といわざるを得ないのです。

 ですから、友達を知ることにもいろいろと程度があることを知っています。「よく知っているよ」「あまり良く知らないのです」「ただ挨拶を交わすだけです」「「親しく知っています」「知り尽くしています」
この差はどこから出てくるのでしょうか。私たちが、彼を知ろうとする熱心と、彼が心を開いて自分を知らせようとすることによってです。

 ところで、友達ではなく、位の高い人、高貴な人の場合はどうでしょうか。いくら、熱心に知りたいと願っても、相手が心を開いてくれなかったら、自分を知らせようとされなかったら、知ることはできないのです。そして、不平を言うことはできないのです。友情を要求することはできないのです。

 もし逆に、その人が最初から、私たちを信頼して、自分が何を考えているかを語り、彼が計画した特別な行事に参加するようにと招いてくださり、さらに、その計画を手伝ってくれるように求められるならば、彼を知る機会を得、それを大いなる光栄とするでしょう。そして、友人のリストに、自分の名前を加えてくれたとするなた、今までとは違う世界が出現するのです。
もうこれ以上、説明する必要はありません。神を知るということが何を意味しているかの、一つのたとえです。

 神は、取るに足りない私たちの元に来て、聖書の言葉と真理を通して、われわれに語りかけてくださったのです。この神の御心を伝える神の言葉は、ついに、肉体をおとりなり現れたイエス・キリストを通して、私たちのにかたりかけ、ご自分を表してくださったのです。

 神は、私たちに対して、心を開き、友となってくださり、仲間に入れてくださったのです。これは本当に驚くべきことです。

 イエス・キリストの弟子にとって、イエスを知ることは、私たちの知っている著名な偉人を知ることとほとんど変わりがありませんでした。しかし、イエスは、畏敬と献身の思いを持って従ってくる弟子たちに、心を開いて、預言者以上の預言者であり、遣わされた救い主、さらに神ご自身であることを示していかれました。

「私を見たものは、父を見たのです。私によらなければ父のみもとにいくことはできない。」「われは道なり、真理なり、生命なり」<ヨハネ14: >
「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。

 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」<17:24―26>

 名は体をあらわすとの言葉のように、神の御名は神のご人格を表すものです。神を知るためには、神の名前を知らなければなりません。
私は主である。これが私の名前である。
神は、この名前を通して、ご自分を表されます。神と出会うために、神の御名をあがめましょう。
「今より、われは主なり」

 この御名による神との出会い、神を知ることこそ、救いの奥義なのです。イエスの御名を知ることは、罪と、罪科と死からの開放をもたらします。さらに、自分自身のうちに、キリストを迎える手段です。これこそ、永遠の命です。
「永遠の命とは、唯一の真の神と、あなたが使わされたイエス・キリストを知ることです」
神について、どれほど広い知識を持っているかということは、どれほど深く知っているかということを意味しません。神を知ることは、知性と、意志と、感情を含めた全人格的なかかわりをもつことです。

 詩編34:8「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」とありますが、「味わう」ことは体験の世界です。その料理はおいしそうに見え、コックさんはしきりにそれを進めます。しかし、それを味わってみるまでは、それがどんなにおいしいものであるか、わかりません。
今日、主は私たちを親しい交わりへと導いてくださいます。
「主を求めるときが来た」「ついに主が訪れて 恵みの雨を注いでくださるように。」
神との出会い、ここで、そして今。「今より、われは主なり」

最後に、美しい詩編34編のお言葉をともに学びましょう。

「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。

 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
主を仰ぎ見る人は光と輝き 辱めに顔を伏せることはない。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。「神は愛なり」

 

 

 

聖イエス会 嵯峨野教会
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